2008年5月アーカイブ
ボクはどうして生きているのか、ずっと悩んできたんだ。だって、友達がいなくて、そもそも家を出ないから誰とも交流がなくて、いる意味がない。ずっとずっとずっと悩んできた。
今日、やっとわかった。ボクの居場所はここじゃなかったんだ。本当のボクの居場所へと旅立つため、今日まで生きてきたんだ。ボクの居場所は、宇宙の別の星にある。別の星っていうのはおかしいかな。こことは違うところにある地球が、ボクの居場所だ。
今日、夢を見た。違う、夢じゃない。夢っていうのは多分、寝ているときに頭を流れた想像のことだ。ボクが見たのは、受けたのはメッセージだから夢じゃない。メッセージが送られてきたのがたまたま寝ているときってだけだから、紛れも無い現実だ。
なんで夢じゃないと断言できるのかって、この事実を知らない人は笑うかもな。笑いたければ勝手に笑えばいい。笑い返してやる。誰だって夢と現実の違いなんて説明できない。現実だと思っている方が夢で夢だと思っている方が現実かもしれない。みんな単純な感覚だけで判断している。ボクが受信したメッセージは、現実だ。学校に通っていた頃はくだらないことばかり話すってバカにされていた。でも、そんなボクだけれど、これは真実なんだ。
興奮って、こういう心境を示すんだな。知らなかった。
起きてから一時間、まだ心臓のバクバクが治まらない。
ふとんを頭まで被ったって、なにも落ち着かない。
まさか本当に地球がもう一つあるなんて、嘘みたいだ。この星から逃げられるのならって腐るほどたくさん考えてきたけれど、現実になるなんて、過去のボクに教えてあげたい。長年苦しんできた。外に出られなくなって、家にいるからって苦しみから逃げられるわけじゃなくて、辛かった。胸が痛い。思い出したくない。
「地球はもう一つあるんだよ」
眠っているボクに優しい言葉が届いた。穏やかな女性の声で「こっちにおいでよ」聞こえた。
起きたとき、ボクは泣いていた。嬉し涙が創作上だけのものじゃないって、初めて知った。
これまでずっと、おかしいと思っていたんだ。世界の偉い人たちがこの地球を汚してばかりいること、疑問だったんだ。どんな政策もどんな行事も、ムダな工事をしてムダな建物を造って、ムダな交通を生む。まるで地球を汚すことが目的であるかのようだって思っていた。温暖化対策って叫びながら、電力消費が激しくなるとわかっていてITを推進する。排気ガスを規制しながら、自動車産業が売りだって自慢げに言う。変な話だらけで、ボクは混乱していた。もう一つ地球があるからこの地球を汚してもいいんだって考えれば、疑問は解決する。
ここがダメになっても、代わりがある。
偉い人たちはどこからかもう一つの地球の情報を入手していたんだ。
もしかしたら普通の国民たちの多くも知っているのかもしれない。車を好きなだけ走らせて、ゴミを好きなだけ出して、地球を汚し放題だ。
地球の視点で見れば、他の人よりボクの方がずっと優しい。部屋に閉じこもって、交通機関をまったく利用していない。出すゴミの量も少なめだ。
ボクは地球に優しくて、人間に優しくない。
人間の視点で見ると、ボクなんて、いてもいなくても同じ存在だ。
ボクがこの部屋から突然消えたとしても、誰の気持ちにもなんの変化もない。
地球の視点で見たって、ボクはいない方がいい。他の人に比べて地球に優しいとしても、ゴミをまったく出していないわけじゃない。地球を汚してはいる。
地球を汚さない人間なんていない。地球に優しいだけじゃここにいる意味がない。
人間に優しくないと意味がない。
ボクは、誰とも接していない。
ボク以外の人間は全員、地球がもう一つあることをすでに知っていたのかもしれない。ボクだけが仲間外れなのかな。
ボクは、孤独だ。
捨て猫だって同じ境遇の捨て猫と出会えば孤独じゃなくなる。ボクが孤独じゃなくなる方法は、この部屋にいる限り、ない。
別にいいんだ。どうせすぐ、この星からいなくなるんだから。
ボクはボクの居場所へと飛ぶ。
二つ目の地球があることは誰もが知っているとしても、二つ目の地球に移動する手段はボクしか知らないはずだ。もしも知っているなら、汚れきったこの星にいるはずがない。
目を閉じてもう一つの地球を強く望みながらゆっくりと百数える、それだけでこの星から脱出できる。メッセージがそう教えてくれた。今のボクの日々に存在しない温かい声で、呟いてくれた。
この地球よ、さようなら。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八、四十九、五十、五十一、五十二、五十三、五十四、五十五、階段を上る足音が聞こえる。部屋へと近づいてくる。
ドアが二回、弱々しくノックされる。
「お昼ご飯できたわよ」
母さんがドアの向こうから言う。いつも通り、どことなく怯えた声だ。
「いらねえよ」
ボクはふとんの中から怒鳴る。
いいところだったのに、どうしてジャマするんだ。
「食べたいときに勝手に食べるよ。捨てな」
ボクはさらに声を張り上げる。
「ごめんなさい」
母さんのか細い声がはっきりと聞こえる。
そんな声、しないでくれ。
ボクはもう一つの地球に行ったとしても、この声を思い出すのかな。この星でのことを、思い出すのかな。
足音が遠ざかっていく。
涙が、出てきた。
ふとんの中の暗闇が、涙でゆがむ。
みんなもしかしたらもう一つの地球への移動方法を知っているのかもしれない。でも、この星が好きだから移動しない。ボクだけがこの星を嫌っているのかもしれない。
ボクだけでいいじゃないか。
ボクはもう一つの地球へと移り住む。そうすればここにいる誰とも会わなくなるんだ。どうせ今も会っていないけれど、今も誰とも無関係だけれど、もっと完璧な無関係になるんだ。
完璧な無関係は、過去を綺麗に忘れさせてくれるかな。
ゼロからのスタートを切らせてくれるかな。
もう一つの地球はどんなところかな。もう一つの地球の景色、メッセージが少しだけ見せてくれた。多分、東京のようだった。ボクの知っている新宿とよく似ていた。もしかして、同じだったかもしれない。
新宿、どんな街になっただろう。五年以上行っていない。昔は通学のために毎日行った。ゲームセンターで楽しんで虚しくなって、時々トイレで吐いた。たった五年、たいして変わっていないかな。五年あれば、全然違う街になっているかな。五年間、ボクは変わった。五年間、世界はどれだけ変わっただろう。
ボクにとってこの星は、少し大きすぎるんだ。
どんな星でも、この星じゃなければそれでいい。ボクはただ、ここじゃない場所へ行きたい。
ここじゃないところ、そう、ここじゃないところ。
「ここじゃないところに行きたいんだ」
昔、ボクは言った。誰に対して言ったんだろう。友達だったかな。先生だったかな。思い出せない。いつのことだろう。思い出したくない。あの頃もやっぱり孤独を感じていて、でも、周りに人がいた。人がいてくれた。
「じゃあ、引っ越せば」
誰かがそんなボクに言った。
「引っ越しぐらいじゃ意味がないんだよ」
ボクは答えた。
引っ越しぐらいじゃ意味がないなら、どこまで行けば意味があるんだろう。家を出ればそれで今のボクにとってはここじゃないところ。家を出たぐらいでなにか変わるのかな。家を出たぐらいじゃ変わらない。でも、試してみないとわからない。試す勇気なんてない。ふとんを出ることさえ、したくない。
他の星に行けば、それは絶対にここじゃないところのはずだ。家を出るより簡単に、行ける。
ここじゃないところに行きたい、ずっとそう願ってきた。その願いが、今、叶う。なによりも強く望み、なによりも遠かった夢が、叶うんだ。
もう一つの地球に行って、ボクはどう過ごすだろう。
虹がどこから伸びているのかを探し回った子ども時代のように、クリアな気持ちのボクがいるはずだ。あの頃のボクは、周りの目なんて気にしなかった。自分が自分でいることに対して素直だった。
一、二、三、四、五、六、七、八、きゅう、じゅう、十一、十二、十三、じゅうよん、じゅうご、じゅうろく、じゅうなな、十八、十九、二十、二十いち、にじゅう二、二十さん、にじゅうよん、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、さんじゅう、さんじゅういち、さんじゅうに、さんじゅうさん、さんじゅうよん、さんじゅうご、さんじゅうろく、さんじゅうなな、さんじゅうはち、さんじゅうきゅう、もう一つの地球に行って、ボクはどこにいるだろう。
そこがこの地球とまったく同じ星なら、この日本と同じ日本があって、この家と同じ家があって、この部屋と同じ部屋がある。今のボクがふとんを被って震えるこの部屋が、ある。
ボクはやっぱりその部屋の中にひきこもるんじゃないか。
もう一つの地球に行く意味、なんだろう。
「悔しかったらまずは家の外に出てみろよ」
昔、誰かがボクに言った。誰だろう。ボクだ。ボクがボクに言ったんだ。
「家の外に出てもどうにもならないよ」
ボクはボクに言った。
「そんなこと出てみないとわからないだろう」
ボクはボクに言った。
ボクはボクの声から耳をふさいで、そして、ふさぎ続けて今だ。
もう一つの地球にもボクはいるのかな。もう一つの地球のボクはなにをしているだろう。やっぱり同じように部屋に閉じこもって、やっぱり同じようにこの地球にいるボクのことを考えているのかな。
人に嫌われるのは嫌だ。一人で生きていきたくない。
自分に嫌われるのも嫌だ。ボクと一番長くいるのはボクなんだから。
ここにいる限り、人にもボクにも、嫌われる。
「悔しかったらまずは家の外に出てみろよ」
ボクがボクに言い放つ。
ボクは死ぬまでボクだ。
階段を上る足音が聞こえる。母さんの足音だ。
また来てくれたんだな。
足音が部屋の前で止まる。
静かだ。
静けさが胸に痛い。
ドアが二回、力なくノックされる。
「ご飯、本当に食べないの」
さっきよりさらに怯えた声で尋ねてくる。
ボクはふとんから顔を出す。
眩しい。
「想像力がないやつは人間じゃないね。人間のクズですらない。ただのクズさ」
八神先生の言葉が記憶に浮かび上がる。
嫌なことがあったときはいつもこうだ。
辛い未来ばかりが頭を巡るような想像力ならなくなってしまえばいい。それとも、辛い想像とも向き合わないといけないのかな。
八神先生は学生に「人間失格」ってあだ名をつけられていた。細身に白衣姿だから「マッドサイエンティスト」とも呼ばれていた。そんな人の言葉が他のどんな先生の言葉より心に残っているって、まずいことかもな。でも、八神先生はバカにされながらも嫌われてはいなかった。
玄関の鍵をかける。靴を投げ捨て、明かりを点けないまま、ふとんの上に寝転がる。真っ暗だ。闇に飲み込まれそうだ。どうして闇の中は飲み込まれそうな気持ちになるんだろう。ポジティブな人間は光に飲み込まれそうになるのかな。
目を閉じ、重い息を吐き出す。
涙が出そうだ。
「泣きたいときは泣くべきだ。人前でも恥ずかしがらず泣くんだ。感情表現できない人間なんて、機械未満だ。機械は感情がないが、頭の回転は人間より遥かに速いからな」
これも八神先生の言葉だ。実際、突然授業中に泣き出したことがあったな。みんなくすくすと笑いながら、泣き終わるのを三十分近く待っていたんだ。
八神先生は男性にしては高い声で色々な話をしてくれた。
高校時代、懐かしい。戻れるなら戻るだろうか。戻ったところで現在になんの変化もないだろう。でも、戻りたいな。当時は三十分の価値なんて考えなかった。ムダに流れた時間があとでいくらでも取り返せるって思えていた。「八神先生みたいに頭のおかしい人が先生になれるんだもんな」ボクと御手洗は笑い合った。未来は明るかった。
あの頃、八神先生は何歳だったのか。二十六歳だとか三十二歳だとか、口にする年齢がいつも違っていた。正確にはわからないけれど、外見的に三十歳前後だったのは間違いない。
ボクは三十歳になったとき、あんなに素直に泣いたり笑ったりできているのか。今から七年後だ。卒業は今から五年前だ。五年前は遠くて七年後は近いって、なんでだろう。
背中と尻が痛い。ふとんの下、畳の固さが直に伝わってくる。こんなに固かったかな。
なんか、疲れたな。
スーツだって制服だって決められた服装に違いはない。それなのにどうしてスーツは息苦しくて制服は恋しくなるんだろう。
スーツ、脱ぎたい。
起きられない。
「お前らは地球に住んでいる。人間社会だってことを考えると、世界に住んでいるって言ってもいいな。世界の一員である以上、世界がどうすれば繁栄するかを知らないといけない。そのためには世界がどうすれば滅亡するかも知っておくべきだ。これ、重要なことだからな。なにかを考えるときはそれと正反対のなにかについての知識もないといけないんだ。悪を知らずに正義を語るやつなんて嘘臭いだろう。楽しく生きたければなにが楽しくないかを知らないといけない。世界を良い方向に進めるためには世界を悪い方向に進める手段も知っておかないといけない」
八神先生が授業中に話していた。正義を語るのに悪を知らないと嘘臭いって、真実かもしれない。当時のボクらは、日常の楽しい面ばかり見過ぎていた気がする。
嫌な面を見たくないから、嫌な面を見なくて済む道ばかり選んで歩いていたのかな。選んでも許される年代だった。
切なさも情けなさも笑えば飛んでいった。実際には飛んでいってなんていなくて後回しにしているだけだなんて、気づきはしない。
社会は若者を甘やかして、でも、期限が切れたなら放置するだけ。
八神先生の担当は保健体育だ。それなのに、人体についてより社会について語ることの方がずっと多かった。
今にして考えれば、明らかにルール違反な先生だ。当時だってそう思っていた。でも、クラスの誰一人として反抗しなかった。親から学校にクレームがついたなんて話も聞かない。大学進学率がゼロに近い低偏差値な学校だからかな。きっと、それだけじゃない。
八神先生の奇抜さは新鮮で、ボクらが盛り上がるために最高に役立つ話題の種だった。ボクらは「こんな授業を受けていていいのかな」漠然とした不安を多少は抱きながらも、普通とされる高校生活との差異に優越感を持っていた気もする。「八神先生の授業を受けている自分たちは特別だ」心のどこかで思っていたんだろう。自らなにも行動せず喜びを得るなんて、八神先生が最も嫌いそうなことだ。「八神先生がもっとちゃんと授業してくれてれば今の状況も少しは違ったかもしれない」こんなことを考える時点でダメなんだろう。
八神先生は世界繁栄と滅亡についての持論を三十分ぐらい語ってから、ボクらに宿題を出したんだ。
「来週の授業までに世界滅亡の方法について作文を書いてこい。どうすれば世界を滅亡できるか必死に考えるんだ。たまには脳みそ使え」
教室内、うざったさと楽しさが入り混じった「えー」が至るところから上がった。八神先生はそんな声を気にする素振りなく、原稿用紙を配った。一人五枚ずつだ。学生たちは不快げにしたり笑ったりしながら原稿用紙を鞄なりにしまっていく。
その日の帰り道、学校から駅までの通学路、ボクは御手洗と歩いていた。男子高校生二人、周囲の大人たちには希望に満ち溢れて見えていたのかな。
「御手洗のクラスも出されたかな。世界がどうすれば滅亡するかって作文の宿題。八神先生の宿題って、いつも意味不明だよな」
まだ明るい時間帯、住宅街の大きな通り、ボクは言った。少しでもたくさん話したくて、ゆっくり歩いていた。二年生に上がりクラスが別々になったばかりだったんだ。一年生のときに比べて共に過ごせる時間が減ったことで、焦りに似たものを少し感じていた。
「そんな宿題出されたんだ。うちは出されてないよ」
御手洗は力なく微笑み、答えた。疲れがありありとしていた。
「そっか。そのうち出されると思うよ。それとも、またいつもの気紛れかな」
ボクは御手洗の様子に戸惑いながら言った。
信号が赤になり、ボクらは立ち止まった。しばらく沈黙が続いた。
当時、会話がスムーズにいかないことが多くなっていた。「別々のクラスになってもたいした問題じゃないさ。授業が違うってだけで、休み時間は会えるし」深く考えずそう話していた過去とのギャップがさらなるぎこちなさに繋がる。
信号が青になり、ボクは口を開いた。
「宿題、どうしようかな。世界滅亡の方法なんて思いつかないよな。そんな簡単に思いつくなら誰かやってるだろうし」
ボクは横を歩く御手洗に視線を向けた。どこか困惑気味の笑顔だった。
正面を向き直すと、数十メートル先の高架上を黄色い電車が走っていた。電車がやけに無機質に見えて、世界をとても遠くに感じた。
「岸田は、考えたことないかな」
御手洗が尋ねてきた。
「なにを」
ボクは尋ね返した。
「世界がなくなればいいって」
御手洗は抑揚のない口調ではっきりと言った。
ボクはその表情を見ることができず、ただ前を向き続けていた。
「どうだろう。よくわからないや」
とりあえずの言葉を口にして黙った。
御手洗も黙っていた。
あのとき少しでもなにかを話していれば、それが役に立つことでも立たないことでも、今が少しは変わっていたのかな。
御手洗はボクが向き合っていないものと向き合っていた。
一年生の二学期まで、御手洗は明るかった。暗さを滲ませるようになったのは三学期からだ。家庭の事情で悩んでいた。両親が離婚しそうだということを知った。それしか知らなかった。深い部分には触れないようにしていた。あの頃はそれが友達としての気遣いだと信じる必要もないぐらいに信じていた。
無力さに後付けの理由をつけていただけだったのかもしれない。
互いに帰宅部、読んでいるマンガ雑誌が同じ、人見知りがち、そんな共通点を元にボクらは友達になった。でも、友達を続けたのは共通点があったからじゃない。理屈じゃないもっと感覚的な部分で惹かれ合っていたからだ。
ボクは家に帰り、机に向かい、世界滅亡の方法について考えた。考えながら、御手洗のことばかりが思い浮かんだ。「世界を滅亡する方法がわかったなら御手洗はどうするだろう。実行されたならどうしよう」ボクは悩む。「そんな方法あるわけがない。けど、実現から程遠いアイディアでも、話せば御手洗が少しは明るく笑ってくれるかもしれない」ボクは辞書を捲りながらアイディアの糸口を探した。「方法があるとしても、実現したりはしない。だってボクがいる」一週間、日によっては夜中まで、多くの時間を作文に費やした。
爆弾を作るとか隕石が落ちるのを願うとか、幼稚園児並のアイディアしか浮かばなかった。頭が柔軟な幼稚園児の方がもう少し使える発言をしそうだ。あまりに低レベルすぎて話の広げようもないから、それらのアイディアを御手洗に話すことはできなかった。話していればよかった。
二人でカラオケに行ったり、ファミレスでくだらないテレビ番組の話を延々としたり、遠回しな励ましばかりをボクは選んだ。卒業までずっとそうだった。御手洗の母親が実家に帰ったことを知っても、具体的な何一つとして口にできなかった。
卒業すれば事態が好転する、そんなこと思っていないのに思っている振りをした。
卒業式のあと、御手洗と職員室に行った。先生たちへの挨拶のためだ。
「三年間ありがとうございました」
整頓されていない書類だらけの机の前、ぼうっとシャーペンを回している八神先生にボクらは言った。
「おう」
八神先生は感慨に浸っている様子なんて微塵もなく答えた。
「先生のこと、忘れませんよ」
ボクは白々しさを装って言った。
「ボクらのことなんてどうせすぐに忘れちゃうんでしょうけどね」
御手洗は笑いながら言った。ボクは上手に笑えなかった。
「それがどうかは将来自分たちで確かめるんだな。三年後ぐらいにでも会いに来いよ。名前を覚えてるか知るためにさ」
八神先生はそう話して笑った。「自分たちで確かめるんだな」その言葉の八神先生らしさが面白くて、同時に、他の先生たちのどんな優しい台詞よりも温かかった。
今、どうしているだろう。問題を起こしてクビになっていそうだ。それとも、今も変わらず個性を放ち続けていたりするのかな。
会いに行ったなら「人に言われた通りにするなんて単純すぎる」笑われそうだ。
笑ってほしいな。
あれから五年が経ったんだ。
真っ暗な部屋のふとんの上で過去を振り返って泣きそうなボクがここにいる。今のボクを見て八神先生はどう思うだろう。泣きたければ泣けって言ってくれるのかな。
人の声が聞きたい。
「悪いけど、どうしようもないことなんだ。納得してくれ」
店長に言われた。二時間前だ。正社員になる話が一度も出なかった時点でこの状況を覚悟しておくべきだったのかもしれない。
バイト、本当にクビになったんだよな。夢だったらいいのに。フリーター生活を脱する絶好の機会だって思える人間になりたい。どうせ永遠にバイトしているわけにはいかないんだ。
電気代、どうしよう。
クビになったのは店の経営上の問題だからしようがない。
ボクがめちゃくちゃ優秀ならクビになんてされていない。
御手洗、どうしているかな。一年近く会っていないな。
高校三年間の多くを一緒に過ごした。今だって連絡を取り合っている。それでも、悩みをしっかりと聞いてあげられたことはまったくない。
電話の向こうの御手洗はいつも明るい。無理して明るく振る舞っているだけだろう。
卒業して事務として就職した会社、まだ続いているのかな。家族の話どころか仕事の話も遠ざけてばかりだ。名字、変わったんだよな。古い名字でしか呼ばない。なるべく名字を呼ばずに済むようにしている。新しい名字、聞いていない。友達の名字を知らないって、どうなんだろう。
世界滅亡の作文、回収されなかったな。八神先生、宿題を出したこと、忘れたのかな。大切なのは考える過程でそれを評価する必要なんてないってことかな。
今度、提出しに行こうかな。もう当時の作文は残っていないから、書き直すことになる。
世界滅亡、どうすればできるだろう。できやしない。目に映る太陽も月も、街も道も、ボクには壊せない。ボクに壊せるものなんてほんの一握りだ。
壊せるものは壊したくない。壊せるものは壊さずにもいられる。壊せるものは守れるものってことかな。
世界滅亡って、なんだろう。
ボクが死ねば世界滅亡だって考えはダメかな。ボク一人が死ぬことも世界の全員が死ぬことも、ボクの視点で見れば同じだ。
疲れたな。
身体、重い。
世界全員が死んだなら、誰も泣かない。ボクが死んだなら、泣いてくれる人がいる。
二人で八神先生に会いに行こうか。昔のボクらに戻れるかもしれない。
御手洗、飯にでも誘おうかな。
なんか今なら、深い話をできそうだ。
プリンを作ってばかりのくたびれた二十二歳女性、人の目にはどう映るのかな。同情も見下しも嫌だ。でも、無視もされたくない。
雑誌やテレビの身の上相談を楽しそうに眺める人間の気持ちなんて、わたしには一生理解できない。
人の不幸を笑える連中が羨ましかったりもする。
自分より不幸な人を知ると、少しだけ前を向ける。悪いことかな。
エアコンのない家、狭いキッチン、汗だくでプリン液をかき混ぜるこの手を、本当はもっと別のことのために使いたい。満たされたい。
このボウル、壁に投げつけても許されるかな。
投げつけたなら、ケイコはどんな顔をするかな。悲しませたくない。
「お姉ちゃん、まだ」
背中越しにケイコのか弱い声が聞こえる。
もう十歳なんだから、少しぐらい手伝えばいいのに。
「まだよ。急いで作るから、待ってね」
わたしは振り向くことせず、背中越しに答える。
母さんがいれば、こんなにプリンのことばかり考えて暮らさなくて済んだんだ。仕事でくたくたになって帰り、夕飯の支度をして、食後にゆっくりすることすらできず今度はプリンを作る。
一生懸命、プリン液をかき混ぜる。
このまま世界のなにもかもがかき混ざっちゃえばいいのに。不幸も幸せも家族も姉妹も卵に溶けて一つになる。
このプリン液に記憶を混ぜてしまいたい。
母さん、本当にいないんだ。
母さんがどうして失踪したのかは五年経った今でもわからない。女手一つで娘二人を育てる辛さに耐えられなくなったのか、それとも、新しい男と愛を育むのにわたしたちがジャマだったのか。理由はなんであれ、わたしと妹のケイコが置いていかれたことは永遠に消えない現実だ。
プリンを作れば作るほど、現実が鮮明になる。
わたしが高校を卒業して働き始めるまで、叔父さん夫婦の家でグチグチ言われながら過ごすしかなかった。けっこうなストレスだったけれど、母さんに置いていかれた苦しみが遥かに大きくて、そこまで気にならなかった。母さんを思って毎晩泣き続ける妹のケイコが不憫でしようがなかった。時々、妹に内緒で泣かなければいけない姉という立場が疎ましくもあった。
今も、ここで泣きたい。
「お姉ちゃん、早く食べたい」
「ごめんね。マンガでも読んで待ってて」
振り返ると、部屋の真ん中、ケイコが今にも泣きそうな表情でわたしを見つめている。
ケイコの向こうのテレビ画面、タレントたちが憎らしいぐらい楽しげに料理している。番組で流れているこの歌、なんてタイトルだっけ。
最近、昔のことがなかなか思い出せない。聞き慣れた歌でも思い出せない。
母さんがプリンを作るのが得意だったという記憶も、怪しい。市販のプリンの素を使っていたはずだから、実際にはそこまで美味しくなかったのかもしれない。あれから五年、わたしは味をおぼろげにしか覚えていない。
デザートのプリンが楽しみで夕飯を急いで食べたことや、そんなわたしに向けられた母さんの穏やかな笑顔は忘れようとしても忘れられない。
どうせいなくなるなら嫌な思い出をたっぷり残していってくれればよかったのに。
いなくなる前日の夜も、プリンを美味しく食べたんだ。
本当に、美味しかった。
不味ければよかったのに。
プリンを四つ作って、わたしとケイコで二つずつだった。たまにケイコが三つ食べた。母さんは甘いものが苦手だからって嘘をついて食べなかったね。
「ママのプリンが食べたい」
母さんがいなくなってから、ケイコはいつもそう言って泣いてきた。
「ママのプリンが食べたい」
十歳になった今もケイコは同じ言葉を口にして涙を流す。
わたしだって食べたい。
ケイコが生まれる前は、全部わたしが食べていた。一人で食べるのがなんか嫌で、母さんに強引に食べさせたことがあったっけ。すごく幸せそうに二人で食べた。
母さんは幸せじゃなかったのかな。
「待っててね」
わたしは泣きじゃくるケイコに離れた位置から優しく声をかける。
並べた型にプリン液を流し込んでいく。
母さんが失踪してから、わたしはプリンが食べられなくなった。食べると泣いてしまう。あのプリンプリンした無邪気な質感が涙を誘う。ケイコはプリンを食べたなら、全力で泣く。わたしはケイコが泣くために涙をこらえてプリンを作っている。
プリン以外の何一つとして意味を持たないような日々ってなんなのだろう。
「ママと同じ味じゃないと嫌だよ」
ケイコは言う。
「うん。お姉ちゃんがんばるから、待っててね」
冷蔵庫の扉を開け、プリン液の揺らぐ型を丁寧に置いていく。
「絶対に絶対にママの味だからね」
ケイコは悲しすぎるぐらいに弱々しい瞳でわたしを見つめる。
わたしは冷蔵庫の扉を閉めてケイコの視線から目を逸らし、壁にかけられた時計の針を見つめる。
午後八時二十分、完成する頃には九時半だ。プリンが五分で固まる裏技でもあればいいのに。
プリンができるまでケイコは泣き続ける。プリンを食べてまたたくさん泣く。泣き疲れて眠る。そしてプリンの夢を見る。
ケイコの頭の中、プリンのことばかりだ。母さんのことばかりだ。
もっと小学生らしくドラマやアニメではしゃいでほしい。はしゃがせてあげたい。
テレビから流れている歌、中学時代に流行ってたんだ。懐かしい。カラオケで、通学路で、悩みなんて言葉を知らないわたしは楽しく歌った。クラスのみんな、どうしているかな。アッコ、パティシエになれたかな。恋人のためにプリン作ったりするのかな。もう五年間、会っていない。今は、会いたくない。
あの頃、プリンはただ味わうためだけのものだった。
毎日毎日、プリンを作る。母さんがいた頃は料理なんてまったくしなかったわたしが、五年間、ほぼ毎日プリンを作っている。高熱でうなされてもプリンを作る。高熱でうなされてプリンに襲われる悪夢を見る。そんな夢から逃げるように起きた朝は、世界が汚れて見える。鏡に映る自分も汚れて見える。
当時から少しでも家事を手伝っていれば、母さんはいなくならなかったのかな。
母さんなんていなければよかった。
母さんが帰ってきたなら全力で抱きつく。
「ねえ、ケイコ」
「なに」
ケイコの涙はまだ止まらない。
「お姉ちゃんが作るプリン、美味しくないかな」
「美味しいよ」
「そっか。嬉しい」
「美味しい、けど」
ケイコは涙をこらえようとがんばって、でも、こらえられない。
「けど、なにかな」
「ママのとは、違う」
「そうね。そうだよね」
母さんのプリンの味なんて、まだ五歳だったケイコはどうせ覚えてやしない。
わたしが世界で一番美味しいプリンを作っても、ケイコは納得しない。
母さんがコンビニのプリンを買って帰ってきたなら、それを笑顔で食べるんだ。
法律でプリンが禁止されればいいのに。もしもそうなれば、わたしはプリンを作らなくていい。
でも、作ってあげたい。
カラメルシロップ、用意しなきゃ。
「お姉ちゃん」
「なに」
「プリン、一緒に食べようよ」
「ケイコ一人で全部食べていいのよ。プリン、好きでしょう」
「お姉ちゃんと、食べたいの」
「どうして」
「食べたいの」
「そうね。たまには、一緒に食べようか。美味しすぎて泣いちゃうかも」
「うん。お姉ちゃんのプリン、美味しいよ」