プリン
プリンを作ってばかりのくたびれた二十二歳女性、人の目にはどう映るのかな。同情も見下しも嫌だ。でも、無視もされたくない。
雑誌やテレビの身の上相談を楽しそうに眺める人間の気持ちなんて、わたしには一生理解できない。
人の不幸を笑える連中が羨ましかったりもする。
自分より不幸な人を知ると、少しだけ前を向ける。悪いことかな。
エアコンのない家、狭いキッチン、汗だくでプリン液をかき混ぜるこの手を、本当はもっと別のことのために使いたい。満たされたい。
このボウル、壁に投げつけても許されるかな。
投げつけたなら、ケイコはどんな顔をするかな。悲しませたくない。
「お姉ちゃん、まだ」
背中越しにケイコのか弱い声が聞こえる。
もう十歳なんだから、少しぐらい手伝えばいいのに。
「まだよ。急いで作るから、待ってね」
わたしは振り向くことせず、背中越しに答える。
母さんがいれば、こんなにプリンのことばかり考えて暮らさなくて済んだんだ。仕事でくたくたになって帰り、夕飯の支度をして、食後にゆっくりすることすらできず今度はプリンを作る。
一生懸命、プリン液をかき混ぜる。
このまま世界のなにもかもがかき混ざっちゃえばいいのに。不幸も幸せも家族も姉妹も卵に溶けて一つになる。
このプリン液に記憶を混ぜてしまいたい。
母さん、本当にいないんだ。
母さんがどうして失踪したのかは五年経った今でもわからない。女手一つで娘二人を育てる辛さに耐えられなくなったのか、それとも、新しい男と愛を育むのにわたしたちがジャマだったのか。理由はなんであれ、わたしと妹のケイコが置いていかれたことは永遠に消えない現実だ。
プリンを作れば作るほど、現実が鮮明になる。
わたしが高校を卒業して働き始めるまで、叔父さん夫婦の家でグチグチ言われながら過ごすしかなかった。けっこうなストレスだったけれど、母さんに置いていかれた苦しみが遥かに大きくて、そこまで気にならなかった。母さんを思って毎晩泣き続ける妹のケイコが不憫でしようがなかった。時々、妹に内緒で泣かなければいけない姉という立場が疎ましくもあった。
今も、ここで泣きたい。
「お姉ちゃん、早く食べたい」
「ごめんね。マンガでも読んで待ってて」
振り返ると、部屋の真ん中、ケイコが今にも泣きそうな表情でわたしを見つめている。
ケイコの向こうのテレビ画面、タレントたちが憎らしいぐらい楽しげに料理している。番組で流れているこの歌、なんてタイトルだっけ。
最近、昔のことがなかなか思い出せない。聞き慣れた歌でも思い出せない。
母さんがプリンを作るのが得意だったという記憶も、怪しい。市販のプリンの素を使っていたはずだから、実際にはそこまで美味しくなかったのかもしれない。あれから五年、わたしは味をおぼろげにしか覚えていない。
デザートのプリンが楽しみで夕飯を急いで食べたことや、そんなわたしに向けられた母さんの穏やかな笑顔は忘れようとしても忘れられない。
どうせいなくなるなら嫌な思い出をたっぷり残していってくれればよかったのに。
いなくなる前日の夜も、プリンを美味しく食べたんだ。
本当に、美味しかった。
不味ければよかったのに。
プリンを四つ作って、わたしとケイコで二つずつだった。たまにケイコが三つ食べた。母さんは甘いものが苦手だからって嘘をついて食べなかったね。
「ママのプリンが食べたい」
母さんがいなくなってから、ケイコはいつもそう言って泣いてきた。
「ママのプリンが食べたい」
十歳になった今もケイコは同じ言葉を口にして涙を流す。
わたしだって食べたい。
ケイコが生まれる前は、全部わたしが食べていた。一人で食べるのがなんか嫌で、母さんに強引に食べさせたことがあったっけ。すごく幸せそうに二人で食べた。
母さんは幸せじゃなかったのかな。
「待っててね」
わたしは泣きじゃくるケイコに離れた位置から優しく声をかける。
並べた型にプリン液を流し込んでいく。
母さんが失踪してから、わたしはプリンが食べられなくなった。食べると泣いてしまう。あのプリンプリンした無邪気な質感が涙を誘う。ケイコはプリンを食べたなら、全力で泣く。わたしはケイコが泣くために涙をこらえてプリンを作っている。
プリン以外の何一つとして意味を持たないような日々ってなんなのだろう。
「ママと同じ味じゃないと嫌だよ」
ケイコは言う。
「うん。お姉ちゃんがんばるから、待っててね」
冷蔵庫の扉を開け、プリン液の揺らぐ型を丁寧に置いていく。
「絶対に絶対にママの味だからね」
ケイコは悲しすぎるぐらいに弱々しい瞳でわたしを見つめる。
わたしは冷蔵庫の扉を閉めてケイコの視線から目を逸らし、壁にかけられた時計の針を見つめる。
午後八時二十分、完成する頃には九時半だ。プリンが五分で固まる裏技でもあればいいのに。
プリンができるまでケイコは泣き続ける。プリンを食べてまたたくさん泣く。泣き疲れて眠る。そしてプリンの夢を見る。
ケイコの頭の中、プリンのことばかりだ。母さんのことばかりだ。
もっと小学生らしくドラマやアニメではしゃいでほしい。はしゃがせてあげたい。
テレビから流れている歌、中学時代に流行ってたんだ。懐かしい。カラオケで、通学路で、悩みなんて言葉を知らないわたしは楽しく歌った。クラスのみんな、どうしているかな。アッコ、パティシエになれたかな。恋人のためにプリン作ったりするのかな。もう五年間、会っていない。今は、会いたくない。
あの頃、プリンはただ味わうためだけのものだった。
毎日毎日、プリンを作る。母さんがいた頃は料理なんてまったくしなかったわたしが、五年間、ほぼ毎日プリンを作っている。高熱でうなされてもプリンを作る。高熱でうなされてプリンに襲われる悪夢を見る。そんな夢から逃げるように起きた朝は、世界が汚れて見える。鏡に映る自分も汚れて見える。
当時から少しでも家事を手伝っていれば、母さんはいなくならなかったのかな。
母さんなんていなければよかった。
母さんが帰ってきたなら全力で抱きつく。
「ねえ、ケイコ」
「なに」
ケイコの涙はまだ止まらない。
「お姉ちゃんが作るプリン、美味しくないかな」
「美味しいよ」
「そっか。嬉しい」
「美味しい、けど」
ケイコは涙をこらえようとがんばって、でも、こらえられない。
「けど、なにかな」
「ママのとは、違う」
「そうね。そうだよね」
母さんのプリンの味なんて、まだ五歳だったケイコはどうせ覚えてやしない。
わたしが世界で一番美味しいプリンを作っても、ケイコは納得しない。
母さんがコンビニのプリンを買って帰ってきたなら、それを笑顔で食べるんだ。
法律でプリンが禁止されればいいのに。もしもそうなれば、わたしはプリンを作らなくていい。
でも、作ってあげたい。
カラメルシロップ、用意しなきゃ。
「お姉ちゃん」
「なに」
「プリン、一緒に食べようよ」
「ケイコ一人で全部食べていいのよ。プリン、好きでしょう」
「お姉ちゃんと、食べたいの」
「どうして」
「食べたいの」
「そうね。たまには、一緒に食べようか。美味しすぎて泣いちゃうかも」
「うん。お姉ちゃんのプリン、美味しいよ」