白の逆

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 世界を真っ白にしたいと強く望んだ。その白が目に映るものを意味するのか目に映らないものを意味するのかは判断できない。ただとにかく、白を激しく欲した。
 その欲望は決して前向きなものじゃなかった。白を望むというよりは、白以外を拒んでいた。幸せになりたいと願う気持ちの根っこが辛さだというのと、多分、同じだ。
 五年前のボクは、白くない世界に苦しんでいた。もう耐えられなくなっていた。
 雨が降っているのに気づかず傘を差さないで外を歩く、そんな状態だった。
 白くない世界について上手に説明することは今のボクにはできない。それは五年間を経たからというだけじゃない。当時のボクにだってできなかったことだ。
 見えるものも聞こえるものも、感じるなにもかもが汚れていた。自分以外の人間が普通の顔をして歩いていることが信じられなかった。苦しんでいる自分が正常だと考え、正常であることに涙した。語彙が日に日に減っていき、家族と会話できなくなり、クラスの誰とも会話できなくなる。笑顔も忘れた。人が笑っているところを目にすればするほど、憎しみが募る。一人の部屋で周囲の笑いを思い出し、また憤る。
 どうしてそのような状態になったのか、理由はわからない。大学受験の勉強、テレビから垂れ流される残酷な報道、クラスメイトの失踪、見当たらない夢、理由らしきものはいくらでも思いつく。けれど、どれも主要因ではなくて、それに、後付けっぽい。事態を解決しようと理由を考えれば考えるほど、理由から遠ざかって、苦しみが近づいてきた。
 やがて理由を考えることに疲れ、苦しみをどうにかしたいということばかり頭を巡るようになる。苦しみをどうにかしたいと願うことにも疲れ、トイレに行くことさえ億劫になる。時に世界のすべてに対する真っ暗な怒りが湧き起こり、怒りをどうにもできない自分をなによりも嫌う。
 ある秋の金曜の夕方、ボクは駅前の商店街で白のペンキを買った。それは意識的な行動ではなかった。部屋のベッドの上で泣いていたはずなのに、次の瞬間には路上でペンキ缶を右手に持っていたんだ。「家にいたのにどうしてここにいるんだろう」手にぶら下がったペンキ缶の重みで現実に気づく。握り潰されたレシートで盗難したんじゃないと判断する。
「世界を白くしたい」
 ボクはペンキ缶を手にぶら下げたまま商店街を離れ、人通りのない場所を探した。住宅の並んだ区域の小さなトンネルにたどり着いた。
 ボクは衝動に逆らうことなく、トンネル内の灰色の壁に向かって白いペンキをぶちまけた。
 すぐ正面、灰色の一部分が汚らしく白に染まった。そう、ほんの一部分だけだ。世界の百億分の一にも満たないぐらいの面積だろう。
 白ペンキがいじけているみたいに滴る缶を地面に叩きつけ、顔を両手で覆った。
 すっきりなんかしない。なにも解決しない。自己満足すらもない。虚しさと罪悪感と情けなさばかりが内面を駆け回る。一年前まではニュース番組の悪しき登場人物たちを「現代社会は病んでいる」なんて遠い目で見下していた。それなのに今のボクは昔の自分が見下していた側にいる。病んでいるのが世界かボクかなんて問題じゃない。とにかく、ボクはボクを好きになれない。それがなによりも痛い。
 その場を去る気力すら出ないまま、しばらくうなだれていた。
 どれだけの時間そうしていただろう。
「こんばんは」
 背後から声が聞こえた。振り返ると同年代の男性が立っていた。
 彼は笑っていた。ボクが嫌いな笑顔とはどこか違っていた。
「それ、君がやったのかな」
 ボクはまずいと思った。思うだけだった。
「そうだけど」
 特に深く考えることなく答えた。
 ボクは目を開けていたけれど、現実はすでに見えていなかった。
「そっか。君がやったのか」
「うん」
「仲間だね」
「仲間」
「そう。仲間」
 気安く仲間扱いしないでほしい。
 誰もが相手のことをたいして知りもしないくせに身近な振りをする。
「なにが仲間だっていうのさ」
 ボクは呟いた。きっと、不快さが表情に出ていたと思う。
「世界を白くしたいんでしょう」
 彼はボクの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「よくやるんだよ、ボクもさ。壁を白くするの」
 ボクも彼の目を見つめていた。人としっかり向かい合うのは、かなり久し振りのことだった。
「こんなことしてもなにもならないってわかってはいるんだけどね」
 彼は自嘲するように微笑んだ。
「名前、教えてもらえないかな」
 彼は言った。
 ボクは彼から目を逸らした。
「せっかく会えたんだしさ」
 彼はさらに言った。
「ユウ、だよ」
 ボクは目を逸らしたまま、囁いた。
 まだ警戒心があり、名字をばらす気にはなれなかった。
「ユウか。ボクは南カズマ。カズマって呼んでよ」
 ボクは再びカズマの目に視線を向けた。カズマは笑ってくれていた。
「こんなことするの、自分だけって思ってたかな」
 カズマは質問してきた。
 ボクは静かに頷いた。
「まあ、そうだよね。ボクも前は同じだった。世界を白くしたいなんて、ボクぐらいしか思ってないだろうなって」
 ボクが考えることはいつだってボクしか考えないことだ。仲間なんていない。ずっとそう思ってきた。確かめることなんてせず、決めつけてきた。
「ちょうどいい日に会えたよ。ユウと」
 カズマは言った。
「ちょうどいい日って」
 ボクは尋ねた。
「実は明日、面白いことを計画してるんだ。よければ、一緒にやらないかな」
「面白い、こと」
「そう。面白いこと」
 カズマは面白いことについてボクに話してくれた。それは今にして考えればとても信じ難い内容だった。でも、ボクは興味深く正面から受け止めた。世界を白くしたいという願いを見抜かれた時点で、かなり心を許していたのだろう。それと、もうなにもかもがどうでもよかったのかもしれない。
 カズマが最初に口にしたのは、世界を白くしたいと願う人が他にも多数いるということだった。学校の同級生経由で知り合った人だったり、ボクのときと同じように壁にペンキをかけているところを偶然見かけた相手だったり、どういう経緯で出会ったのかを明らかにできない相手だったり、とにかく何十名もいるとボクに告げた。
 そして、面白い計画とは、そのメンバーで一斉に街中に白のペンキをぶちまけるというものだった。
 そんなことをしても世界すべてが白くなりはしない。けれど、日々の生活における白の量が少しは増える。それに、同じ街に暮らす人たちにボクらの存在を主張することができる。この世界を不快に思っている者がいるんだというメッセージだ。たとえそのメッセージがなにも成さないとしても、行動を起こしたという満足感は得られる。行動を起こしさえすれば、その結果を元にして次どうするべきかが見えてくる。
 ついさっき、ペンキをぶちまけてもなにも得られないと知ったばかりのボクなのに、その計画を妙に素直に受け入れられた。
「どうだい。一緒にやるかい」
 カズマは笑顔で尋ねてきた。話している間、ずっと笑顔だった。ボクに拒まれるなんて考えは微塵もない様子だった。
 ボクはカズマの誘いに対して、迷うことなく首を縦に振った。
 翌日の二十六時に同じ場所で待ち合わせする約束を交わす。ボクは平静を装い「じゃあ」と素っ気なく一言だけ残してその場を去った。
 胸の内は落ち着いてなんかいなかった。鳥肌が立っていたのは寒いからじゃない。計画に対して興奮していた。「ボクにも仲間がいたんだ。仲間たちと今を壊すための行動を起こせるんだ」約束の時間がとにかく待ち遠しくて、一睡もできなかった。「こんな気持ちにボクもなるんだ」そんな風に考えることすらないほど、約束の瞬間が早く訪れることを切に望んだ。警察に捕まる可能性があることへの不安はなかった。共犯者たちの存在が心強かったのか、逮捕されても構わないという気持ちだったのか、それとも、不安を忘れてしまうほどの喜びに満たされていたのか。
 ボクの知らないボクがいた。ボクの忘れたボクがいた。
 ボクはまだ、大丈夫だった。
 約束の夜、こっそり家を抜け出したボクは三十分以上前からトンネルにいた。二十分前、カズマが現れた。
「ユウ、ちゃんと来たね」
「うん。来たよ」
「それじゃあ、行こうか」
 カズマは歩き始め、ボクはそのすぐ横に並んだ。その手を握りたいぐらい、隣に人がいることが嬉しかった。
 月の隠れた空の下、車の通らない広い道を無言で進む。道を挟んだ住宅の明かりはどれもが消えていた。数分後、中学校の前を通り過ぎる。ボクの母校だ。ボクは校舎に目を向けることはせず、うつむき加減に歩いた。さらにしばらく同じ道を行き、路地に入っていく。
「あそこだよ」
 カズマが指差す先には、大きな公園があった。地元なのにボクの知らない公園だ。知らないのではなくて、忘れたのかもしれない。
 敷地面積は広いのに、遊具はほとんどない。
 街灯だけの薄暗い空間、遠くからでも三十名以上の人がいること、大きなトラックが停まっていることはわかった。
「お待たせしました」
 カズマはその場にいる人たちに軽く頭を下げた。ボクも同じようにした。
 ほとんどの人はボクらより年上のようだった。父さん母さんと同世代だろう人もいた。
「みんな早く着きすぎちゃってさ。遠足みたいだ」
 スーツ姿の二十代後半ぐらいの男性がそう言って笑った。他の人たちも笑っていた。
 女性も三人いた。
「一緒にいるのは、友達かな」
 トレーナー姿のサングラスをかけた男性がカズマに質問した。
「はい。友達で、仲間です」
 友達、久々に聞いた言葉はどこか違和感があって、どこか温かかった。
「そうか。よろしくな」
 質問した男性はボクを見て優しく微笑んだ。
 ボクは会釈をして、心の中でよろしくと呟いた。
 白い世界を望む人がボク以外にもいるということが不思議だった。ボクと年齢が違っていたり性別が違っていたりする人たちなのに、同じ思いを持っている。不思議で、また、安心した。
「じゃあ、全員揃ったし、始めようか」
 誰かが言った。
 真顔、固い笑顔、幸せそうな笑顔、表情は統一されていなかったけれど、みんな頷いた。カズマとボクも頷いた。
 トラックの荷台に何十と積まれたペンキの缶を、二つあるいは三つ、四つ、それぞれの手に持つ。
 自分の胸の鼓動が聞こえた。唾を何度も飲み込んだ。
「事前に伝えてある通り、行動後の集合はなし。各自の好きな場所にペンキをぶちまけて、それで終了。全員、白が増えた世界で少しでも楽な気持ちになれることを願ってる。もう、同じ計画が行われずに済むことを、願ってる。辛くなったときは、自分がぶちまけた白のペンキを眺めよう。皆の健闘を祈る」
 リーダー格であろう大学生っぽい男性の言葉で、ボクらは散った。また例のトンネルで落ち合う約束をして、カズマとも違う方向へと歩いた。
 暗い街を一人行く。心細かった。でも、足は止まらなかった。
 最後の男性の言葉が胸をよぎった。
 白の世界を願うボクがいる。楽な気持ちを願うボクがいる。満たされることを願うボクがいる。ボクはまだ、多くを願うことができる。
 ボクが向かった先は、小学生時代に通っていた児童館だった。
 児童館は、さすがに古ぼけてはいたものの、昔とほぼ変わらない姿でそこにあった。
 ボクは児童館から目を逸らし、また、目を向ける。すぐ横には駐車場がある。駐車場も昔のままだ。そして、駐車場の塀の落書きも、昔のままだった。真っ赤なスプレーで大きく記されたわいせつな言葉、初めて見たのは小学二年生のときだ。学校から児童館へと向かう途中、昨日まで綺麗だった塀が汚されていることに怒り、悲しくなった。どうしてこんなことをする人がいるのだろうと、まだそのわいせつさに気づけない年齢のボクはただただ純粋な心で嘆いた。児童館のお兄さんに落書きを消すようにお願いした。その願いが叶うことはなかった。児童館の敷地内ではないから等の大人の事情があったのだろう。
 やがてボクはその落書きがまったく気にならなくなり、そして、ペンキを壁にかける側の人間になった。
「あのとき、自分で消せばよかったんだよな。こんなもの、簡単に消せるんだ」
 ボクは落書きと向き合い、呟いた。
 どうすれば塀が綺麗になるだろうなんて考えている間に、動けばよかったんだ。
 ボクは白いペンキを思い切り塀にかけた。缶三つ分、全部だ。灰色の塀、白いペンキはいびつな模様を描いていて、綺麗とは程遠い。でも、赤い落書きはほとんど見えなくなった。
 気持ちがすっとしたりはしない。ただ、トンネルでのときのような嫌な感じはなかった。
 ボクは白くなった壁を少し見つめてから、その場を離れた。
 トンネルへと戻る間に、二箇所、白くなった場所を見た。一箇所は喫茶店の扉で、一箇所は曲がり角のガードレールだった。どうしてそこが選ばれたのかはわからない。ボクが理由を知ることに意味はない。理由なんて本人にしかわからない。でも、理由をわかってあげたい気持ちにはなった。
 トンネルに着くと、カズマはすでに待っていた。
「おかえりなさい」
 カズマは明るく言った。
「ただいま」
 ボクは言った。
「少しは、心が軽くなったかな」
 カズマが質問してきて
「どうだろう」
 ボクは答えた。自分の気持ちがいまいちつかめていなかった。嬉しくも悲しくも楽しくもない。ただ、少なくとも、苦しくはない。
「ねえ、ユウ。せっかくだし、高いところから街を見ない」
 カズマは提案した。すぐ近く、十二階建てのマンションの屋上にボクを連れていった。
 エレベーターを降り、それなりに広いスペースの端、フェンス越しに街を見下ろした。
「白いね」
 カズマは呟いた。
「うん。白い」
 ボクも呟いた。
 数十人がペンキをぶちまけたぐらいで白くなるわけがないことぐらいわかっている。それでも、白かった。
「ボクらはまだ、白くないね。ペンキを被ってない」
 カズマに言った。
「じゃあ、被ろうか」
 カズマは優しく微笑んで言った。
「きっと、そんなことじゃないんだ」
 ボクはそう口にして、白くなった街に再び視線を向けた。
「そうだな。そんなことじゃないね」
 カズマの同意が、すごく嬉しかった。
 ボクは自分の名字をカズヤに教えた。
 あれから五年が経ったんだ。
 今じゃあのときの白のペンキは街のどこにも残っていない。上から塗り潰された。ボクらの行動は、表面的にはすべて消えた。
 カズマとはあの頃からずっと友達でいる。二人とも半年後、浪人や留年を経験することなく、大学を卒業する。有名企業ではないけれど、就職先も決定済みだ。まあ、順調な日々なのかもしれない。
 共に行動した他のメンバーとの繋がりはゼロだ。行動直後はカズマ経由で何名かについての近況を少し聞いたけれど、今はまったくない。苦しみのない日々を過ごしていてほしいなと思う。思うだけだ。
 思うだけ、それで充分だろう。
 白を望むことはほとんどなくなった。
 今は頻繁に、世界の鮮やかさや美しさを感じる。目や心に映る景色に、素朴な幸せを見つける。カズマと遊んでいるときや、大学で研究に没頭しているときや、家族と食事しているときだ。
 時に美しさが恐くて、過去とのギャップが苦しくて、逆に汚れてしまってほしいと願うことがある。
 苦しんでいた昔に戻りたいと望んでしまうこともある。昔のボクが今のボクのそんな望みを知ったなら、怒り狂うだろうな。ボクの気持ちなんてどうせわかってくれていないくせにと。
 そう、今のボクに昔のボクの気持ちはわからない。「あの頃のボクは鮮やかさや美しさを受け止めるのが今より苦手だったんだな」なんて分析したところで、それはただの見下しに過ぎない。
 今のボクにも辛くて泣くときはある。まるで昔のボクみたいだなんて考える。でも、どれだけ辛くなろうが涙を流そうが、それは昔のボクじゃない。
 今のボクに当時と同じ行動はできない。当時の行動を正しいと言ってあげることもできない。
 当時のボクらと同じように、今、世界を白くしたいと願っている人がたくさんいるだろう。そんな人に出会っても、現在のボクに伝えられる言葉はない。汚れていることと色があることは違うんだと伝えたいけれど、伝える自信がない。
「白の逆って、黒じゃないよね」
 昨日、駅前の喫茶店、ボクはカズマに言った。
「うん。世界には白なんてないんだ」
 カズマは答えた。
 カズマの笑顔は昔とまったく変わらない。温かい。
 昔のボクは笑顔が嫌いだった。でも、出会いのとき、カズマの笑顔は嫌じゃなかった。それはボクにしっかりと向けられた笑顔だったからなのだと、今はわかる。
 もしも当時のボクらと同じような人に出会ったなら、せめて、ちゃんと見つめてあげたい。