トカゲの足

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 幼い頃、一冊の童話と巡り会った。ヨーロッパ生まれの童話で、保育園の本棚に置かれていた。ボクは何回も何十回も繰り返し読んだ。飽きることなく、ページを捲る度、胸が高鳴った。
 その童話に特定の主人公はいない。一つの前提の元、世界中の様々な人が登場する。前提とは「人は生涯に少なくとも一度、必ず、強く願うことが叶っている」というものだ。家族で農場を営みながら暮らす女性は「夫に美味しくご飯を食べてもらいたい」そんな願いが毎日叶っている。学校帰りに強い陽射しを浴びた少年は「喉を潤したい」そう願い、汗をかきながらたどり着いた家で井戸水をたらふく飲む。とある老婆は「孫にありがとうを言ってもらいたい」パイを振る舞うことでその願いを実現する。どれもが身近で有り触れた願いかもしれない。でも、身近であろうが有り触れていようが、紛れもなく強い願いだ。童話の作者は、日々がどれだけ幸せに満ち溢れているかを伝えたかったのだろう。思い通りにならないことばかりがやたらと目につく人生、実は自分のすぐ傍で、多くが思い通りになっている。
 でも、ボクがその童話の熱心な読者になったのは、傍ではなくて彼方を見つめたからだ。
 ボクは「人は生涯に少なくとも一度、必ず、強く願うことが叶っている」この説を信じた。根拠なんてない。理屈じゃない。幼い頃に受けた影響は、筋の通った論理でかき消せない力を持つ。そんな非科学的なことはありえないと考えながらも、さらに信じるための理由を無意識に無理に作ったりする。
 友達の一人は運動会の中止を願い、本当に雨が降った。
 友達の一人は誕生日にラジコンが欲しいからその願いを何度も何度も父親に告げて、実現させた。
 友達の一人は宝くじの当選を願い、三百円を手に入れた。
 実例はいくらでも存在する。
 童話に出てくる説が本当か嘘かを明らかにすることはできない。つまり、本当である可能性を、完全には否定できない。
 ボクはなにかを強く願うことをなるべく避けるようにして過ごした。
 だって、もしも生涯に一度だけのチャンスなら、くだらない願いのためには使いたくない。
 欲しいものができたときも、順調にいかないことと遭遇して苛々したときも、衝動を殺すように努めた。
 願いから目を逸らすことは、当時のボクにとって一種の癖になっていた。食事のときにいただきますを言うのと同じようなもので、重荷ではなくて面倒臭くもなくて、ただの習慣だ。
 中学校に入りバスケットボールを始めたときも、願いをできるだけ遠ざけた。レギュラーになりたいのは願いじゃなくて目標だと自分に言い聞かせる。ドリブルがうまくなりたいのも、フリースローの成功率を上げたいのも、目標だ。周りより低い身長が伸びてほしいという気持ちも「父さんも母さんも背が高いから願わなくても伸びるさ」そう考えてごまかし続けた。
 目標だけを見つめて真っ直ぐに努力した。その結果、ボクは実力をつけ、中学二年の終わり頃には県内でそれなりに名の通った存在になっていた。
 自分よりずっと大きな選手の向こうにあるゴールへと華麗にジャンプシュートを決める。その度、身長を望んでいた自分を忘れ、優越感に浸る。
 そんなある日、夕飯後にリビングでテレビを見ていた。
 元ピアニストのイギリス女性のドキュメンタリーが放映されていた。
 彼女は幼少期より様々なコンクールを総なめにし、天才ピアニストとして注目を集めていた。イギリス国内では歴史上の音楽家の誰よりも有名なほどだったらしい。しかし、十五歳の夏、交通事故に遭い、両腕の神経が切断され、すべての指が動かなくなってしまう。世間は天才少女を襲った悲劇に涙した。そして、本人は世間の落胆以上に苦しんだ。生きる価値を見失ってしまいそうになるぐらいに。ラジオからなんらかの音楽が流れてくる度、辛くて耳を塞いだ。いっそ耳を燃やしてしまおうとまで考えた。けれど、両親や友人たちの愛情の力を借り、立ち直っていく。ピアノが好きだという気持ちと向き合い、指導者として音楽界に帰ってきた。自分はもう弾けない。それでも、ピアノの素晴らしさを伝えたい。彼女はその後、名指導者として、何人もの一流ピアニストを輩出した。
 その番組が伝えたかったのは、困難から逃げない大切さや、苦境の先にこそ光があるということだったのだろう。
 ボクは、指導者としての彼女の輝きには気づけなかった。事故に遭った際の苦しみの描写だけが心に残った。
「もしもバスケットボールができなくなったなら、ボクはどうなるのか。彼女は指が動かなくなっても、ピアノが弾けなくなっても、立ち直ることができた。ボクは立ち直ることなんて絶対にできない」
 ボクは、恐くなった。バスケットボールができなくなったなら、自分の価値が消える。そうとしか思えなかった。
 手がなくなることよりも目が見えなくなることよりも、なによりも足がなくなることに怯えた。ジャンプ力がボクにとっての最大の武器だったからだろう。いつの日か世界の誰よりも高く跳べるようになるとすら思っていた。
「足を失ったボクは、大切なネジを失ったロボットのように、脆く崩れるだろう」
 恐怖について人に話したことはない。表面にも多分、出ていなかったと思う。内面だけに留めておける程度の恐怖だった。ただ、常に心のどこかに引っかかり、ときに夜をひどく不安なものにした。朝、目覚めたとき、意思を持った足がどこかへ消えてしまっているかもしれない。
 ボクはある日、強く願うようになった。消えても新しく生え変わる能力を足が得ることを。そう、トカゲの尻尾のように。足はもしも動けなくなったなら、自らを上半身から切り離し、次を誕生させる。そうなればボクは、いつまでも高く跳べる。
 気持ちをごまかすことなく、願い続けた。
 中学三年の春、学校から帰る途中の道、ボクはやっぱり願っていた。短パンから出ているこの両足がトカゲの尻尾のようになったなら最高に素晴らしいと。
 車が通ることのほとんどない住宅街、ボクは注意力を欠いていた。足を失うことに怯えているくせに、無防備だった。
 角を曲がるとき、ボクを眩いライトが覆った。その明かりの向こうに、ボクのすぐ正面に、車が来ていた。
 次の瞬間、ボクは倒れていた。暗くなった夜の空を仰いでいた。
 地面に打ちつけられたのか、右腕を痛みが貫く。
 車が走り去っていく音が聞こえる。
 手をついてゆっくりと上体を起こし、そして、目に映った物体に呼吸を奪われた。
 そのとき、どんな感情に陥ったかは説明できない。激しく混乱していた。
 胸がとてつもなく痛んだのは覚えている。身体的な痛みではなく、精神的な痛みだ。腕の痛みなんてどこかへ消えた。
 目の前には、足が転がっていた。太もも、膝、ふくらはぎ、足首から靴まで、まるまる一本、横たわっていた。それは間違いなく、ボクの右足だった。何百回も何千回も愛しくマッサージしてきた自分の右足だ。
 さらに胸が苦しくなった。
 ボクは状況を把握することのできないまま、自分の下半身に視線を向けた。
 左足も右足も、しっかり残っていた。透明で粘り気のある液体に覆われた右足が、ボクの身体にちゃんと繋がっている。
 右足にそっと触れた。固まりかけのゼリーみたいな液体の感触と生温い肌の感触が指を伝う。つねってみる。ちゃんと痛い。
 震えながらも、両足で立ち上がることができる。
 車に撥ねられた、それは確かだ。転がっているのが自分の右足であることも確かだ。右足がボクの下半身に残っていることも確かだ。
 願いが叶ったんだ。
 ボクの足は、不死身になったんだ。
 そこでやっと、感情は混乱から抜け出し、はっきりした形を取り戻した。嬉しいという感情が、ボクの内面を埋め尽くした。
 転がった右足に手を伸ばした。拾おうとして触れた。右足は触れられると同時になくなった。蒸発とか風化とか、そんな感じだ。役目を失ったから消えたのだろうとボクは判断した。これからはこの生まれ変わった右足が、新たなボクの相棒だ。
 ボクは一歩一歩を大切に踏みしめながら、家へと帰った。
 部屋に戻り、ベッドに腰掛け、優しく右足を撫でた。そのとき、嬉しさに疑問が入り込んできた。
「生まれ変わったこの足は、ボクの身体と繋がっている。でも、本当に、ボクの足なのか」
 非現実的な状況下に置かれていることに、やっと気づいた。
「こいつは、ボクが眠っている間にどっかに行っちゃうんじゃないか。ジャンプすると同時に、足から落ちるんじゃないか」
 疑問はすぐに恐怖へと変わった。
 ボクの右足を、もう、ボクの右足として思えなくなっていた。
 そして、非現実的な状況に押し潰されたボクは、バスケットボールをやめた。
 今にして考えれば、燃え尽きるまでやるべきだった。本来なら轢き逃げに遭った時点で失っていた選手生命なんだ。たとえ足がジャンプシュート中に地面に置き去りになってしまうとしても、実際にそうなるまでダメ元で挑戦すればよかったんだ。でも、当時のボクは弱くて、それができなかった。やめることを引き止めてくれる周囲を拒絶し、バッシュを処分した。
 本当は、バスケットボールが、したかったんだ。
 バスケットボールをやめて、人に注目されることも脚光を浴びることもなく、平凡に時を重ねてきた。最初はその平凡さや地味さが情けなくて、歯痒くて、頻繁に涙が出た。けれど、あれから十年が経った今、平凡で地味な毎日を否定する気持ちにはならない。家族がいて、友達がいて、仕事があって、日々に不満はない。
 不満がなくても、やっぱり、後悔することはある。
 仕事がうまくいかなくて苦しいとき、テレビ画面に偶然バスケットボールの試合が映り、嘔吐する。バスケットボールをしたいと思いながらも、その気持ちに嘘をついた時期を、激しく悔いる。
「あのとき全力を尽くしていれば、もっと楽に生きているのかな」
 童話にしてもドキュメンタリーにしても、様々なことについて、ボクはいつでも、大事な部分を受け止め損なってきた。
 もっと身近な幸せを願っていればよかった。
 今後、身近な幸せを願い続けていれば、心の底から笑えるようになるのかな。
 身近な幸せを願い続けていれば、燃え尽きることができるのかな。