びしょ濡れテレビ、いりますか(8/20)
今、ボクは部屋で一人だ。
本当か嘘かはわからないけれど、世界には六十億の人間が住んでいるらしい。その誰もが、世界で唯一の存在だ。たとえ双子だろうが六つ子だろうが、地球上におけるただ一人だ。山吹君と話した今日、そんな当たり前のことを実感した。それまでは忘れていた。
自分の人生の主役は自分だと常盤さんが言っていた。同じように他人の人生の主役は他人なんだ。
帰り、校門までは三人で歩いた。校門を出てからは、山吹君だけ逆方向だ。明るく挨拶を交わし、いつも通り朽葉君と二人きりになった。
朽葉君は歩きながらほとんど喋らなかった。
山吹君と自分を心の中で重ねていたのだろう。決して戻らないものを抱えた仲間だ。
生きるうちで得るものの数は失うものの数より多いはずなのに、なぜか時々、逆に思える。
だからボクは過去を振り返る。
過去と向き合い、得たことの膨大さに気づく。
「このピストル、お父さんの形見なんだ」
出会った日の放課後、朽葉君はとても愛しげにそう呟いた。あれからまだ、たったの一年すら経っていないんだ。
まだとかたったとかって思っちゃいけないのかな。
あの出会いの日、学校にいる間、朽葉君はたくさん喋った。最初は、どこに住んでいるか、好きなマンガはなにか、そんな当たり障りのない話題だ。でも、ボクにはすごく大きな価値があった。「うん」とか「そうだね」とか言うので精一杯だったけれど、満足していた。
学校についても話してきた。「三学年でクラスが一つしかない学校って珍しいよね。長くいれば、さらに学校の変なところがわかるようになるよ」学校のことよりも朽葉君の頭にあるピストルのことが気になっていた。けれど、触れられずにいた。
もっと話そうよって朽葉君から誘われて、放課後、学校近くの公園に寄った。区民に開放された四百メートルトラックがすぐ傍にある小さな公園だ。まだ寒い風が吹く中、ベンチに並んで腰かけた。二人とも温かい缶を手に握っていた。
高い建物がないから、青い空がよく見えた。
二人きりであることへの不安が正直大きくて、緊張していた。出会って十時間も経っていない相手だ。まさか放課後を一緒に過ごすことになるなんて、想像していなかった。
朽葉君が警察に声をかけられるんじゃないかって心配もしていた。それが本物であれ偽物であれ、ピストルを頭に当てて歩くなんて普通ではない。学校を出ればピストルを鞄にしまうのだろうと勝手に決めつけていた。
でも、緊張や心配よりも、喜びが一番強かった。
朽葉君は曇りなく微笑んでくれていた。
「親や親戚以外と話すの、本当に久し振りなんだ。クラスでは会話がゼロだからさ」
朽葉君はそうボクに言った。
「どうして、クラスの人に話しかけないの」
ボクは尋ねた。
「自分から話しかけるのは、避けてるんだ。だから、藤君から話しかけてきてくれて、すごく、嬉しかった」
ボクは名前を呼んでもらえることが嬉しかった。
「話すの、苦手そうには、見えないよ」
「苦手なわけじゃないし、話すのっていうか、近づくのを避けてる。このピストルのせいか、昔から周りとうまくいかなくてさ。自分から近づいたら、迷惑かなって」
朽葉君は笑っていた。
ちょっと辛い笑顔だった。
「迷惑なんかじゃ、ないと思うよ」
「そうかな」
「うん」
迷惑をかけることだけじゃなくて冷たい態度をとられることも恐いのだろうと思った。
「それって、おもちゃ、だよね」
ボクは安心したかった。おもちゃだとはっきり言ってほしかった。偽物だとわかれば、もっと楽しく話せる。
本物のピストルをボクは知らない。本物と偽物の区別に自信はない。でも、朽葉君の手にあるピストルは、色や形から判断してどうしても偽物に見えなかった。
本物のわけがないと考えながらも、その考えを信じきれていなかった。
「違うよ。本物だよ」
朽葉君は答えた。
そのとき少し、声と笑いに影がかかった。
ボクが離れてしまうのではと心配したのだろう。
「本物って、違法だよね」
「もちろん、違法だよ」
朽葉君はボクを簡単に殺せる道具を持っている。でも、殺される心配はしなかった。
動揺して現実を把握できていなかっただけかもしれないけれど、恐怖心がなかった。
日本語をちゃんと喋ることに集中していた。
せっかくできた温かい話し相手を失いたくない。
「逮捕されたり、しないのかな」
「されないね。警察に声をかけられたこともない」
「なんでだろう」
「中学生がピストルを持って歩いてるなんて、ありえないからかな」
「そういうもの、かな」
「そういうものなんだよ」
確かに朽葉君の言う通りなのかもしれないと思った。誰もこれが本物だって信じない。
理屈はどうあれ、朽葉君がピストルを持ったまま生きていることは事実だ。
「他人は、みんな、素っ気ないから」
切なくそう呟いた朽葉君が抱える物語を聞いてあげたい気持ちになった。
「どうやって手に入れたの」
「このピストル、お父さんの形見なんだ」
「お父さん、いないんだね」
「うん。三年前に、死んじゃった。交通事故だった。今は、お母さんと二人暮らし」
「大事なピストルなんだね」
「大事だよ。思い出が詰まってる」
「そっか」
ピストルだろうと写真だろうと本だろうと、それが大事なものであれば、違いはない。
「うちのお父さん、すごく変わった教育方針の人だったんだ。人間は常に死ぬ気でがんばらないといけないって言ってた。だから、一緒にいるときはいつも、ボクの頭にピストルを突きつけてた。外を歩いてるときもさ。いつ死ぬかわからない状況だからこそ、必死に生きられる。時々、仕事がない日は、学校までついてきたよ。教室で、ボクの隣に立ってるんだ、ずっと。ピストルを突きつけたままさ」
「先生たち、なにも言わなかったの」
「言わなかったよ。恐くて言えなかったのかな」
朽葉君は楽しそうに笑った。
ボクも笑った。
父親のことを話す朽葉君は、見ているボクの胸が躍るぐらい、活き活きとしていた。
「お父さんがいないなら、もう、そうしてなくてもいいんじゃないのかな」
「なんか、お父さんの思いを、守り続けたいなって。ピストルをしまっちゃったら、お父さんの考えを否定することになるから。お父さんのこと、好きだったから」
「いいお父さんだったんだね」
「優しかったよ。怒ると恐かったけどね」
「すごく恐そうだね」
「うん。殺されるんじゃないかって、おしっこ漏らしちゃうぐらいに」
「仕事はなにをしてたの」
「普通の会社員だよ。どうやってピストル手に入れたんだろうな。未だに、謎だ」
「お母さんは、お父さんのこと、どう思ってたのかな。教育についてとか」
「仲良かったし、賛成してたよ。今も、ボクがこうしてること、肯定してる」
朽葉君の話は明らかに常識から逸脱している。そんなことはまだ幼いボクにだってわかる。
でも、疑う根拠はない。必要もない。
大切なのは目の前にあることを現実と受け止め、向かう先を見つめることだ。
「ないしほてしなはんさくたとっも。とこなろいろい」
「えっと、なんだろう」
朽葉君が首をかしげる様子を見て、ボクは逆さ言葉を口にしてしまったことに気がついた。
「ご、ごめん」
「別に謝る必要はないけどさ」
「にうと、本当に、ん、ごめん。言葉を、がせくる、逆に喋る癖が、だ、だ、あるんだ」
ボクは怯えていた。
コンプレックスが膨張する。
「へえ、すごいね。それ、めちゃくちゃ特技じゃん」
「えっ」
「だって、そんなことできるやつ、いないよ」
朽葉君は無邪気に驚いてくれた。
「テレビとか出られるんじゃないの」
あまりに嬉しくて、ボクは泣いた。
頬を伝う涙の温かさが、心地良かった。
「なんで泣くのさ」
言葉が出なかった。
悲しいんじゃないことだけは伝えたくて、涙でゆがんだ視界の中、朽葉君の右手を強く握った。
朽葉君は握り返してくれた。
過去に積み重なった疲れや痛みや迷いが、その分だけの未来に変わった。