カタン: 2008年6月アーカイブ

  • わたしに勇気がないこと、見抜かないでください
  • 辛い気持ちの捨て方、どこに置いてきたのかな
  • いつでも泣けるのに、今にも泣きそう
  • 病んでいるのが世界かわたしかは問題じゃない
  • わたしがわたしを好きになれないことが問題だ
  • 同情も見下しも無視も嫌い
  • 汗を流す人に声援を送る勇気が出ない
  • 半分残るけど、大きなピザを頼むんだ
  • 苦しみが消えるのを願うことに疲れて、トイレに行くことも億劫になる
  • 退屈なパレードは参加する意味がない。充実したパレードは終わりが寂しい。

ひとりがふたり

| カテゴリ:ひとりがふたり

 きっと夢だ。そう、夢に決まっている。こんなこと現実に起こるはずがない。
 頬をつねると、普通に痛い。
 子どものとき、誕生日プレゼントが嬉しくて信じられなくて、やっぱり同じように頬をつねった。あのときのオルゴール、実家の押入れにまだあるかな。
「ねえ、ユウイチ」
 わたしは言う。
「なに」
 正面であぐらをかいている二人のユウイチの声がぴたりと重なる。
 わたしはまた頬をつねる。
「隠してたけど実は双子だったってオチじゃないわよね」
 わたしが質問し
「そんなわけないだろう」
 二人のユウイチが同時に答える。
 夢というより、コントだ。
 長男だからユウイチと名づけたという両親は、二人を見たならなにを思うだろう。
「だって、信じられるわけないじゃない。朝起きたら自分が二人になってたなんて」
「オレだって信じられないよ」
 二人のユウイチが不愉快そうに互いを見る。
 どちらも同じ外見で、同じ髪型で、同じ雰囲気を漂わせている。服は分裂しなかったようで違うけれど、二人ともどう見たってわたしの恋人のユウイチだ。
「なにをどうしたらいいかわからないけど、とりあえず二人の呼び名は決めた方がいいわよね」
 わたしは提案する。
 二人は互いを睨みつけている。
「ユウイチA、ユウイチBでどうかしら」
 わたしは右側のユウイチ、左側のユウイチを順番に指差す。
「どうしてこいつがAでオレがBなんだよ。逆だろ。オレが先だからAだ」
 左側のユウイチが苛立ちをあらわにして言う。「じゃあ逆にしましょう」もしもそう言ったなら、今度はもう一人のユウイチが反抗するんだろう。ややこしい。
「じゃあ、あなたが右ユウイチ、あなたが左ユウイチ」
 わたしから見て右側に座る風景写真がプリントされたTシャツを着ている方が右ユウイチ、左側に座るビンテージもののジーパンを履いている方が左ユウイチだ。うん、覚えた。でも、わたしが席を外している間に服を交換されたなら、絶対に判断できない。
「右の方がなんだか偉そうだ」
 左ユウイチが言う。
「呼び名なんてどうでもいいよ。どうせこいつ、追い出すから」
 右ユウイチが言う。
「追い出されるのはお前だろう。ふざけんなよ」
 左ユウイチが言う。
「黙れ、偽者」
 右ユウイチが言う。
 頭がおかしくなる。自分相手なんだからもっと仲良くすればいい。
 互いの気持ちが完璧にわかっているはずなのに、どうしてこうなるのか。
「ねえ、ケンカするのはやめようよ。冷静に話し合わないと」
「冷静になんてできるわけないだろう」
 わたしの意見を二人はずれなく否定する。いがみ合っているのに呼吸はぴったりだ。もういっそのこと、二人が付き合えばいいんじゃないか。
「とりあえず、二人同時に喋るのはやめて。聞いててなんか辛い」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
 また二人同時に言う。
「簡単なことじゃないの。右ユウイチ、左ユウイチが交互に喋るようにすればいいのよ。それぞれの言い分をさ」
「なんでこいつが先なんだよ」
 左ユウイチが文句をつけてくる。
 いい加減にしてほしい。
「どっちが先でもいいじゃないの。とにかく、従いなさい。さからわないで」
 わたしは厳しさを込めて言う。
 左ユウイチは不快そうながらも、沈黙する。
「まずは右ユウイチから。ねえ、どうしてもっと冷静になれないの」
「なれるわけないだろう。オレは一人分の人生を歩んできて、オレが突然二人になって、これからどうしろっていうのさ。オレがオレの役を奪われたら、オレはどうするのさ」
 オレばかりでわかりづらいけれど、言いたいことはなんとなく伝わってくる。
 わたしがわたしであることを奪われたなら、名前や経歴や家族や恋人を失ったなら、途方に暮れるだろう。
「じゃあさ、次は左ユウイチ。二人が一日交代でユウイチになるってのはどう。奇数の日は右ユウイチがユウイチの順番、偶数の日は左ユウイチの順番。三十一日の分、奇数が多いから、そこはうまく調整ね。社会人になっても半分休めるし、楽でいいでしょう」
 わたしからすればどちらも同じユウイチだ。たとえ二人と交互にデートすることになっても、今となんら変わりがない。一人と付き合いながら二人と付き合うんだから、ちょっとお得かもしれない。戸籍は一つだから、二人と結婚することもできる。
「いいわけないだろう」
 左ユウイチが言う。明らかに納得していない表情だ。
「そうだ。いいわけがない」
 右ユウイチも言う。左ユウイチとまったく同じ表情をしている。
「こいつをサナに触れさせたくない。絶対に」
 左ユウイチは右ユウイチを睨んできつい口調で言う。
「オレだってそうだ」
 右ユウイチは左ユウイチを睨んできつい口調で言う。
 ユウイチって、独占欲の強い男だったんだな。大学一年のときから交際を始めてもうすぐ三年、こんなユウイチは初めて見る。独占欲とかそういう問題じゃないのかな。
 以前、男友達と飲みに出かけても何も言わないユウイチに「もう少し嫉妬してよ」冗談っぽく真剣に話したことがある。なんか、すごい昔のことみたいだ。「わたしの気持ちなんて全部ユウイチ次第なんだよ」甘えた声で肩を寄せたときのこと、二人とも覚えているかな。
 二人と交互にデートしたなら、思い出は分割されるんだ。
「こいつはオレじゃない」
 二人は言う。
「オレはオレだ」
 さらに二人は言う。
 この部屋がこんな険悪な空気になるの、これまでで初めてだ。自分の部屋なのに、居心地が悪い。引っ越せば済む問題じゃない。どこかに逃げてしまいたい。逃げちゃいけないことぐらいはわかる。
 過去、ユウイチと二人きりのときは、穏やかだった。それなのに、ユウイチとユウイチと三人になったなら、この状況だ。
「お前はオレじゃないんだからどっかに行けよ」
 二人が言う。
「どっかに行くのはお前だろう」
 さらに二人が言う。
 分裂した瞬間までは確かに一人の人間だった。でも、二人になった時点で、同じ遺伝子で同じ記憶でも、別人なのかもしれない。一秒に一秒ずつ、違う一秒を体験するに連れて、もっと別人になっていく。そしてやがて声が重なることもなくなる。
 将来、どちらかだけを好きになる瞬間が訪れるのかな。
「じゃあ、やっぱり、どちらか選ぶしかないのね」
 わたしは呟く。
 二人は鋭い視線をわたしに向ける。
 胸が重い。
「だって、このままじゃ、楽しくなれないもの」
 選ぶ、そう口にしたのはわたし自身だ。
 選ぶって、どうやって選ぶんだろう。
 二人ともわたしの好きなユウイチだ。違いなんてない。
 選べるわけがない。
「サナ」
 二人が微笑む。
「そんな悲しい顔するなよ」
 温かい声をかけてきてくれる。
 やっぱりユウイチだ。
「しようがないもんな。オレたちで決めてくるよ」
 二人は言い、互いの視線を合わせ、立ち上がる。等しい歩調で玄関へと歩く。
 ドアの前で並んで靴を履く。
 見慣れた後ろ姿が二つ、外へ出て行く。
 ドアが閉まる。部屋にはわたし一人になる。
 一人の部屋って、こんなに静かだったんだな。ユウイチが遊びに来ているとき以外は大抵一人なのに、気づかなかった。
 部屋、広いな。狭いかな。よくわからない。
 ユウイチの部屋に行くよりわたしの部屋に来ることの方がずっと多かった。こっちの方が大学に近いからだ。
 ユウイチといるときは、一人暮らしだってことを忘れた。
 ベッドの枕元にいるピンクのウサギのぬいぐるみ、住み始めの頃に買ったんだ。一人暮らしの寂しさを紛らわしたかった。ユウイチと出会ってからは、のろけ話を聞かせる相手になった。
 もしも一人になったなら、今のわたしは、ぬいぐるみが百個あっても耐えられない。
 この部屋でユウイチとたくさん過ごした。試験について、クラスメイトについて、就職について、欲しい子どもの数について、死の瞬間は恐いから二人同時に迎えたいということについて、いっぱい話した。もっと話したい。
 今、二人は外でどんな話をしているんだろう。
 わたしには二人のうちの一人を選べなかった。二人になら選べるんだろうか。
 選ぶことを放棄するかもしれない。不公平だからと二人揃ってわたしの前から姿を消すかもしれない。わたしは一人になる。独りぼっちになる。
 ユウイチがいなくなるなんて、考えたことなかった。
 ユウイチもわたしがいなくなるなんて、考えたことなかったかな。きっと、考えたことない。
 想像しなかった苦しみを片方に背負わせるぐらいなら、二人で背負うんじゃないか。
 さっきまでケンカしていたし、考えすぎかな。
 考えすぎじゃないかな。
 涙が、出てきた。
 嫌だ。
 ドアが開く。固い表情をした二人が入ってくる。わたしを見て表情がさらに固くなる。
 自分の心臓の鼓動が、聞こえる。
 二人はさっきと同じようにわたしの正面に並んで座る。
 右ユウイチも左ユウイチも、ユウイチだ。
「泣くなよ」
 二人のユウイチが優しく言葉を紡ぐ。
「ねえ、三人でいるのは、やっぱり無理なのよね」
 わたしが問いかけ、二人がうつむく。
「それは、無理だよ。オレたちは、別人だから」
 右と左から同じ声が悲しく聞こえる。
「そう。そうよね」
「うん」
「話し合い、どうなったのかな」
「ジャンケンで決めることにした」
「ジャンケン」
「オレとしての権利は全部ジャンケンで勝った方のもの。幼い方法だけど、他に決めようがないからさ」
「そう、かもね」
 二人は顔を上げ、真剣な視線でわたしを見つめる。
「見ててくれな。決定の瞬間、サナには見ていてほしいから」
「うん。ちゃんと、見るよ」
「ああ。ありがとう」
 右側のユウイチと左側のユウイチ、二人は向き合い、手を上げる。
「ジャンケン」
 同時に手を下ろす。二人ともグーだ。「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともチョキ「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともグー、あいこが続く。やっぱり同じ思考の持ち主だ。二人ともユウイチだ。
 胸が痛い。涙が止まらない。こんな緊迫したジャンケン、他にはない。目を逸らしたい。逸らしちゃいけない。
 三人で過ごすの、本当に無理なのかな。
 子どものとき、誕生日プレゼントになにが欲しいか、母親に聞かれた。オルゴールとガラス細工、なかなか選べず悩んだんだ。
 あのときのわたしは、オルゴールを選んだ。
 オルゴールを貰ったとき、ガラス細工のことなんて頭から消えた。しょせんは物だからだ。
 ユウイチのことは、忘れられない。
 わたしの気持ちって、こんなに不器用だったんだな。まるで子どもみたいだ。
 十九回目のあいこ、二十回目のあいこ、二十一回目のあいこ、二十二回目のあいこ、二十三回目のあいこ、二十四回目のあいこ、このままあいこが永遠に続けばいいのに。二十七回目のあいこ、二十八回目のあいこ、いっそのことどっちのユウイチもいなくなるのが一番楽かもしれない。それで将来、わたしがお母さんになる頃「あのときは大変だったね」なんて三人で無邪気に笑い合うんだ。
 笑い合えるわけがない。
「ジャンケン」
 振り下ろされた右側のユウイチの手はグー、左側のユウイチの手はパー、違う手の形だ。決着、ついたんだ。ついちゃったんだ。
 わたしは目を逸らす。
「オレの負けだな」
 ユウイチの声が聞こえる。
「そうだな」
 ユウイチの声が聞こえる。
 ユウイチのため息が左右から聞こえる。
 わたしは両手で両目をこする。
「約束だもんな。オレ、出て行かないとな」
 わたしの視界の右端、ユウイチが立ち上がる。目を向けると、後ろ姿しか見えない。
「ユウイチ」
 わたしは言う。うまく声が出ない。
 立ったユウイチが振り返る。見慣れた高さから、わたしに微笑む。
 背伸びしてキスをした、いつもの高さだ。
「サナ、幸せにな」
 再びわたしに背を向け、玄関へと歩く。
 わたしから、離れていく。
 離れているのはわたしかな。
 ユウイチは靴を履き、ノブを握る。ノブを回し、外へと出て行く。
 ドアが閉まる。
 部屋にわたしたちだけが残る。
 二人だけが残る。
「ねえ、ユウイチ」
「なに」
 ユウイチは重たい無表情で真っ白な壁を見つめている。
「もう一人の自分と二人でここからいなくなろうとか、考えなかったのかな」
「考えないよ」
「どうして。その方が、公平でしょう」
「そんなことしたら、サナ、悲しむだろう」
「そう、ね。悲しいね」
「だからだよ」
「ありがとう」
「お礼なんていらないよ。オレたちのためでもあったんだから」
 ユウイチはわたしを見ようとはしない。
 もう一人の自分のことばかり考えているんだろう。わたしと同じだ。
「ちょっとトイレに行ってくるわ」
「ああ」
 わたしは立ち、ユウイチの左側を通り過ぎる。
 トイレのドアを開け、中に入る。
 閉めたドアにもたれ、床にしゃがみ込む。
 涙、やっぱり止まらない。
 ユウイチも泣いているのかな。
 部屋を出たユウイチは、どこに向かうんだろう。家に帰るのかな。帰れないんだ。さっきのジャンケンで自分がユウイチであるということを失った。二十二歳でのゼロからの始まりは、マイナスからの始まりだ。
 ユウイチは今、わたしに会いたがっているかな。
 冬に公園のベンチに座って二人でたこ焼きを食べたこと、夏に突然雨が降り出したから傘を買って店から出たならもうやんでいたこと、夜にわたしが部屋で転んで血が出たときにバンソウコウを笑えるぐらいたくさん買ってきてくれたこと、すべての思い出にこっちのユウイチもあっちのユウイチもいたんだ。わたしは忘れない。ユウイチも忘れない。
 どっちのユウイチとも恋人でいたい。どっちのユウイチとも抱き締め合いたい。独占欲が強いのは、誰よりもわたしかな。
 追いかけたい。追いかけよう。
 これも浮気なのかな。

白の逆

| カテゴリ:白の逆

 世界を真っ白にしたいと強く望んだ。その白が目に映るものを意味するのか目に映らないものを意味するのかは判断できない。ただとにかく、白を激しく欲した。
 その欲望は決して前向きなものじゃなかった。白を望むというよりは、白以外を拒んでいた。幸せになりたいと願う気持ちの根っこが辛さだというのと、多分、同じだ。
 五年前のボクは、白くない世界に苦しんでいた。もう耐えられなくなっていた。
 雨が降っているのに気づかず傘を差さないで外を歩く、そんな状態だった。
 白くない世界について上手に説明することは今のボクにはできない。それは五年間を経たからというだけじゃない。当時のボクにだってできなかったことだ。
 見えるものも聞こえるものも、感じるなにもかもが汚れていた。自分以外の人間が普通の顔をして歩いていることが信じられなかった。苦しんでいる自分が正常だと考え、正常であることに涙した。語彙が日に日に減っていき、家族と会話できなくなり、クラスの誰とも会話できなくなる。笑顔も忘れた。人が笑っているところを目にすればするほど、憎しみが募る。一人の部屋で周囲の笑いを思い出し、また憤る。
 どうしてそのような状態になったのか、理由はわからない。大学受験の勉強、テレビから垂れ流される残酷な報道、クラスメイトの失踪、見当たらない夢、理由らしきものはいくらでも思いつく。けれど、どれも主要因ではなくて、それに、後付けっぽい。事態を解決しようと理由を考えれば考えるほど、理由から遠ざかって、苦しみが近づいてきた。
 やがて理由を考えることに疲れ、苦しみをどうにかしたいということばかり頭を巡るようになる。苦しみをどうにかしたいと願うことにも疲れ、トイレに行くことさえ億劫になる。時に世界のすべてに対する真っ暗な怒りが湧き起こり、怒りをどうにもできない自分をなによりも嫌う。
 ある秋の金曜の夕方、ボクは駅前の商店街で白のペンキを買った。それは意識的な行動ではなかった。部屋のベッドの上で泣いていたはずなのに、次の瞬間には路上でペンキ缶を右手に持っていたんだ。「家にいたのにどうしてここにいるんだろう」手にぶら下がったペンキ缶の重みで現実に気づく。握り潰されたレシートで盗難したんじゃないと判断する。
「世界を白くしたい」
 ボクはペンキ缶を手にぶら下げたまま商店街を離れ、人通りのない場所を探した。住宅の並んだ区域の小さなトンネルにたどり着いた。
 ボクは衝動に逆らうことなく、トンネル内の灰色の壁に向かって白いペンキをぶちまけた。
 すぐ正面、灰色の一部分が汚らしく白に染まった。そう、ほんの一部分だけだ。世界の百億分の一にも満たないぐらいの面積だろう。
 白ペンキがいじけているみたいに滴る缶を地面に叩きつけ、顔を両手で覆った。
 すっきりなんかしない。なにも解決しない。自己満足すらもない。虚しさと罪悪感と情けなさばかりが内面を駆け回る。一年前まではニュース番組の悪しき登場人物たちを「現代社会は病んでいる」なんて遠い目で見下していた。それなのに今のボクは昔の自分が見下していた側にいる。病んでいるのが世界かボクかなんて問題じゃない。とにかく、ボクはボクを好きになれない。それがなによりも痛い。
 その場を去る気力すら出ないまま、しばらくうなだれていた。
 どれだけの時間そうしていただろう。
「こんばんは」
 背後から声が聞こえた。振り返ると同年代の男性が立っていた。
 彼は笑っていた。ボクが嫌いな笑顔とはどこか違っていた。
「それ、君がやったのかな」
 ボクはまずいと思った。思うだけだった。
「そうだけど」
 特に深く考えることなく答えた。
 ボクは目を開けていたけれど、現実はすでに見えていなかった。
「そっか。君がやったのか」
「うん」
「仲間だね」
「仲間」
「そう。仲間」
 気安く仲間扱いしないでほしい。
 誰もが相手のことをたいして知りもしないくせに身近な振りをする。
「なにが仲間だっていうのさ」
 ボクは呟いた。きっと、不快さが表情に出ていたと思う。
「世界を白くしたいんでしょう」
 彼はボクの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「よくやるんだよ、ボクもさ。壁を白くするの」
 ボクも彼の目を見つめていた。人としっかり向かい合うのは、かなり久し振りのことだった。
「こんなことしてもなにもならないってわかってはいるんだけどね」
 彼は自嘲するように微笑んだ。
「名前、教えてもらえないかな」
 彼は言った。
 ボクは彼から目を逸らした。
「せっかく会えたんだしさ」
 彼はさらに言った。
「ユウ、だよ」
 ボクは目を逸らしたまま、囁いた。
 まだ警戒心があり、名字をばらす気にはなれなかった。
「ユウか。ボクは南カズマ。カズマって呼んでよ」
 ボクは再びカズマの目に視線を向けた。カズマは笑ってくれていた。
「こんなことするの、自分だけって思ってたかな」
 カズマは質問してきた。
 ボクは静かに頷いた。
「まあ、そうだよね。ボクも前は同じだった。世界を白くしたいなんて、ボクぐらいしか思ってないだろうなって」
 ボクが考えることはいつだってボクしか考えないことだ。仲間なんていない。ずっとそう思ってきた。確かめることなんてせず、決めつけてきた。
「ちょうどいい日に会えたよ。ユウと」
 カズマは言った。
「ちょうどいい日って」
 ボクは尋ねた。
「実は明日、面白いことを計画してるんだ。よければ、一緒にやらないかな」
「面白い、こと」
「そう。面白いこと」
 カズマは面白いことについてボクに話してくれた。それは今にして考えればとても信じ難い内容だった。でも、ボクは興味深く正面から受け止めた。世界を白くしたいという願いを見抜かれた時点で、かなり心を許していたのだろう。それと、もうなにもかもがどうでもよかったのかもしれない。
 カズマが最初に口にしたのは、世界を白くしたいと願う人が他にも多数いるということだった。学校の同級生経由で知り合った人だったり、ボクのときと同じように壁にペンキをかけているところを偶然見かけた相手だったり、どういう経緯で出会ったのかを明らかにできない相手だったり、とにかく何十名もいるとボクに告げた。
 そして、面白い計画とは、そのメンバーで一斉に街中に白のペンキをぶちまけるというものだった。
 そんなことをしても世界すべてが白くなりはしない。けれど、日々の生活における白の量が少しは増える。それに、同じ街に暮らす人たちにボクらの存在を主張することができる。この世界を不快に思っている者がいるんだというメッセージだ。たとえそのメッセージがなにも成さないとしても、行動を起こしたという満足感は得られる。行動を起こしさえすれば、その結果を元にして次どうするべきかが見えてくる。
 ついさっき、ペンキをぶちまけてもなにも得られないと知ったばかりのボクなのに、その計画を妙に素直に受け入れられた。
「どうだい。一緒にやるかい」
 カズマは笑顔で尋ねてきた。話している間、ずっと笑顔だった。ボクに拒まれるなんて考えは微塵もない様子だった。
 ボクはカズマの誘いに対して、迷うことなく首を縦に振った。
 翌日の二十六時に同じ場所で待ち合わせする約束を交わす。ボクは平静を装い「じゃあ」と素っ気なく一言だけ残してその場を去った。
 胸の内は落ち着いてなんかいなかった。鳥肌が立っていたのは寒いからじゃない。計画に対して興奮していた。「ボクにも仲間がいたんだ。仲間たちと今を壊すための行動を起こせるんだ」約束の時間がとにかく待ち遠しくて、一睡もできなかった。「こんな気持ちにボクもなるんだ」そんな風に考えることすらないほど、約束の瞬間が早く訪れることを切に望んだ。警察に捕まる可能性があることへの不安はなかった。共犯者たちの存在が心強かったのか、逮捕されても構わないという気持ちだったのか、それとも、不安を忘れてしまうほどの喜びに満たされていたのか。
 ボクの知らないボクがいた。ボクの忘れたボクがいた。
 ボクはまだ、大丈夫だった。
 約束の夜、こっそり家を抜け出したボクは三十分以上前からトンネルにいた。二十分前、カズマが現れた。
「ユウ、ちゃんと来たね」
「うん。来たよ」
「それじゃあ、行こうか」
 カズマは歩き始め、ボクはそのすぐ横に並んだ。その手を握りたいぐらい、隣に人がいることが嬉しかった。
 月の隠れた空の下、車の通らない広い道を無言で進む。道を挟んだ住宅の明かりはどれもが消えていた。数分後、中学校の前を通り過ぎる。ボクの母校だ。ボクは校舎に目を向けることはせず、うつむき加減に歩いた。さらにしばらく同じ道を行き、路地に入っていく。
「あそこだよ」
 カズマが指差す先には、大きな公園があった。地元なのにボクの知らない公園だ。知らないのではなくて、忘れたのかもしれない。
 敷地面積は広いのに、遊具はほとんどない。
 街灯だけの薄暗い空間、遠くからでも三十名以上の人がいること、大きなトラックが停まっていることはわかった。
「お待たせしました」
 カズマはその場にいる人たちに軽く頭を下げた。ボクも同じようにした。
 ほとんどの人はボクらより年上のようだった。父さん母さんと同世代だろう人もいた。
「みんな早く着きすぎちゃってさ。遠足みたいだ」
 スーツ姿の二十代後半ぐらいの男性がそう言って笑った。他の人たちも笑っていた。
 女性も三人いた。
「一緒にいるのは、友達かな」
 トレーナー姿のサングラスをかけた男性がカズマに質問した。
「はい。友達で、仲間です」
 友達、久々に聞いた言葉はどこか違和感があって、どこか温かかった。
「そうか。よろしくな」
 質問した男性はボクを見て優しく微笑んだ。
 ボクは会釈をして、心の中でよろしくと呟いた。
 白い世界を望む人がボク以外にもいるということが不思議だった。ボクと年齢が違っていたり性別が違っていたりする人たちなのに、同じ思いを持っている。不思議で、また、安心した。
「じゃあ、全員揃ったし、始めようか」
 誰かが言った。
 真顔、固い笑顔、幸せそうな笑顔、表情は統一されていなかったけれど、みんな頷いた。カズマとボクも頷いた。
 トラックの荷台に何十と積まれたペンキの缶を、二つあるいは三つ、四つ、それぞれの手に持つ。
 自分の胸の鼓動が聞こえた。唾を何度も飲み込んだ。
「事前に伝えてある通り、行動後の集合はなし。各自の好きな場所にペンキをぶちまけて、それで終了。全員、白が増えた世界で少しでも楽な気持ちになれることを願ってる。もう、同じ計画が行われずに済むことを、願ってる。辛くなったときは、自分がぶちまけた白のペンキを眺めよう。皆の健闘を祈る」
 リーダー格であろう大学生っぽい男性の言葉で、ボクらは散った。また例のトンネルで落ち合う約束をして、カズマとも違う方向へと歩いた。
 暗い街を一人行く。心細かった。でも、足は止まらなかった。
 最後の男性の言葉が胸をよぎった。
 白の世界を願うボクがいる。楽な気持ちを願うボクがいる。満たされることを願うボクがいる。ボクはまだ、多くを願うことができる。
 ボクが向かった先は、小学生時代に通っていた児童館だった。
 児童館は、さすがに古ぼけてはいたものの、昔とほぼ変わらない姿でそこにあった。
 ボクは児童館から目を逸らし、また、目を向ける。すぐ横には駐車場がある。駐車場も昔のままだ。そして、駐車場の塀の落書きも、昔のままだった。真っ赤なスプレーで大きく記されたわいせつな言葉、初めて見たのは小学二年生のときだ。学校から児童館へと向かう途中、昨日まで綺麗だった塀が汚されていることに怒り、悲しくなった。どうしてこんなことをする人がいるのだろうと、まだそのわいせつさに気づけない年齢のボクはただただ純粋な心で嘆いた。児童館のお兄さんに落書きを消すようにお願いした。その願いが叶うことはなかった。児童館の敷地内ではないから等の大人の事情があったのだろう。
 やがてボクはその落書きがまったく気にならなくなり、そして、ペンキを壁にかける側の人間になった。
「あのとき、自分で消せばよかったんだよな。こんなもの、簡単に消せるんだ」
 ボクは落書きと向き合い、呟いた。
 どうすれば塀が綺麗になるだろうなんて考えている間に、動けばよかったんだ。
 ボクは白いペンキを思い切り塀にかけた。缶三つ分、全部だ。灰色の塀、白いペンキはいびつな模様を描いていて、綺麗とは程遠い。でも、赤い落書きはほとんど見えなくなった。
 気持ちがすっとしたりはしない。ただ、トンネルでのときのような嫌な感じはなかった。
 ボクは白くなった壁を少し見つめてから、その場を離れた。
 トンネルへと戻る間に、二箇所、白くなった場所を見た。一箇所は喫茶店の扉で、一箇所は曲がり角のガードレールだった。どうしてそこが選ばれたのかはわからない。ボクが理由を知ることに意味はない。理由なんて本人にしかわからない。でも、理由をわかってあげたい気持ちにはなった。
 トンネルに着くと、カズマはすでに待っていた。
「おかえりなさい」
 カズマは明るく言った。
「ただいま」
 ボクは言った。
「少しは、心が軽くなったかな」
 カズマが質問してきて
「どうだろう」
 ボクは答えた。自分の気持ちがいまいちつかめていなかった。嬉しくも悲しくも楽しくもない。ただ、少なくとも、苦しくはない。
「ねえ、ユウ。せっかくだし、高いところから街を見ない」
 カズマは提案した。すぐ近く、十二階建てのマンションの屋上にボクを連れていった。
 エレベーターを降り、それなりに広いスペースの端、フェンス越しに街を見下ろした。
「白いね」
 カズマは呟いた。
「うん。白い」
 ボクも呟いた。
 数十人がペンキをぶちまけたぐらいで白くなるわけがないことぐらいわかっている。それでも、白かった。
「ボクらはまだ、白くないね。ペンキを被ってない」
 カズマに言った。
「じゃあ、被ろうか」
 カズマは優しく微笑んで言った。
「きっと、そんなことじゃないんだ」
 ボクはそう口にして、白くなった街に再び視線を向けた。
「そうだな。そんなことじゃないね」
 カズマの同意が、すごく嬉しかった。
 ボクは自分の名字をカズヤに教えた。
 あれから五年が経ったんだ。
 今じゃあのときの白のペンキは街のどこにも残っていない。上から塗り潰された。ボクらの行動は、表面的にはすべて消えた。
 カズマとはあの頃からずっと友達でいる。二人とも半年後、浪人や留年を経験することなく、大学を卒業する。有名企業ではないけれど、就職先も決定済みだ。まあ、順調な日々なのかもしれない。
 共に行動した他のメンバーとの繋がりはゼロだ。行動直後はカズマ経由で何名かについての近況を少し聞いたけれど、今はまったくない。苦しみのない日々を過ごしていてほしいなと思う。思うだけだ。
 思うだけ、それで充分だろう。
 白を望むことはほとんどなくなった。
 今は頻繁に、世界の鮮やかさや美しさを感じる。目や心に映る景色に、素朴な幸せを見つける。カズマと遊んでいるときや、大学で研究に没頭しているときや、家族と食事しているときだ。
 時に美しさが恐くて、過去とのギャップが苦しくて、逆に汚れてしまってほしいと願うことがある。
 苦しんでいた昔に戻りたいと望んでしまうこともある。昔のボクが今のボクのそんな望みを知ったなら、怒り狂うだろうな。ボクの気持ちなんてどうせわかってくれていないくせにと。
 そう、今のボクに昔のボクの気持ちはわからない。「あの頃のボクは鮮やかさや美しさを受け止めるのが今より苦手だったんだな」なんて分析したところで、それはただの見下しに過ぎない。
 今のボクにも辛くて泣くときはある。まるで昔のボクみたいだなんて考える。でも、どれだけ辛くなろうが涙を流そうが、それは昔のボクじゃない。
 今のボクに当時と同じ行動はできない。当時の行動を正しいと言ってあげることもできない。
 当時のボクらと同じように、今、世界を白くしたいと願っている人がたくさんいるだろう。そんな人に出会っても、現在のボクに伝えられる言葉はない。汚れていることと色があることは違うんだと伝えたいけれど、伝える自信がない。
「白の逆って、黒じゃないよね」
 昨日、駅前の喫茶店、ボクはカズマに言った。
「うん。世界には白なんてないんだ」
 カズマは答えた。
 カズマの笑顔は昔とまったく変わらない。温かい。
 昔のボクは笑顔が嫌いだった。でも、出会いのとき、カズマの笑顔は嫌じゃなかった。それはボクにしっかりと向けられた笑顔だったからなのだと、今はわかる。
 もしも当時のボクらと同じような人に出会ったなら、せめて、ちゃんと見つめてあげたい。

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