世界滅亡: 2008年5月アーカイブ
「想像力がないやつは人間じゃないね。人間のクズですらない。ただのクズさ」
八神先生の言葉が記憶に浮かび上がる。
嫌なことがあったときはいつもこうだ。
辛い未来ばかりが頭を巡るような想像力ならなくなってしまえばいい。それとも、辛い想像とも向き合わないといけないのかな。
八神先生は学生に「人間失格」ってあだ名をつけられていた。細身に白衣姿だから「マッドサイエンティスト」とも呼ばれていた。そんな人の言葉が他のどんな先生の言葉より心に残っているって、まずいことかもな。でも、八神先生はバカにされながらも嫌われてはいなかった。
玄関の鍵をかける。靴を投げ捨て、明かりを点けないまま、ふとんの上に寝転がる。真っ暗だ。闇に飲み込まれそうだ。どうして闇の中は飲み込まれそうな気持ちになるんだろう。ポジティブな人間は光に飲み込まれそうになるのかな。
目を閉じ、重い息を吐き出す。
涙が出そうだ。
「泣きたいときは泣くべきだ。人前でも恥ずかしがらず泣くんだ。感情表現できない人間なんて、機械未満だ。機械は感情がないが、頭の回転は人間より遥かに速いからな」
これも八神先生の言葉だ。実際、突然授業中に泣き出したことがあったな。みんなくすくすと笑いながら、泣き終わるのを三十分近く待っていたんだ。
八神先生は男性にしては高い声で色々な話をしてくれた。
高校時代、懐かしい。戻れるなら戻るだろうか。戻ったところで現在になんの変化もないだろう。でも、戻りたいな。当時は三十分の価値なんて考えなかった。ムダに流れた時間があとでいくらでも取り返せるって思えていた。「八神先生みたいに頭のおかしい人が先生になれるんだもんな」ボクと御手洗は笑い合った。未来は明るかった。
あの頃、八神先生は何歳だったのか。二十六歳だとか三十二歳だとか、口にする年齢がいつも違っていた。正確にはわからないけれど、外見的に三十歳前後だったのは間違いない。
ボクは三十歳になったとき、あんなに素直に泣いたり笑ったりできているのか。今から七年後だ。卒業は今から五年前だ。五年前は遠くて七年後は近いって、なんでだろう。
背中と尻が痛い。ふとんの下、畳の固さが直に伝わってくる。こんなに固かったかな。
なんか、疲れたな。
スーツだって制服だって決められた服装に違いはない。それなのにどうしてスーツは息苦しくて制服は恋しくなるんだろう。
スーツ、脱ぎたい。
起きられない。
「お前らは地球に住んでいる。人間社会だってことを考えると、世界に住んでいるって言ってもいいな。世界の一員である以上、世界がどうすれば繁栄するかを知らないといけない。そのためには世界がどうすれば滅亡するかも知っておくべきだ。これ、重要なことだからな。なにかを考えるときはそれと正反対のなにかについての知識もないといけないんだ。悪を知らずに正義を語るやつなんて嘘臭いだろう。楽しく生きたければなにが楽しくないかを知らないといけない。世界を良い方向に進めるためには世界を悪い方向に進める手段も知っておかないといけない」
八神先生が授業中に話していた。正義を語るのに悪を知らないと嘘臭いって、真実かもしれない。当時のボクらは、日常の楽しい面ばかり見過ぎていた気がする。
嫌な面を見たくないから、嫌な面を見なくて済む道ばかり選んで歩いていたのかな。選んでも許される年代だった。
切なさも情けなさも笑えば飛んでいった。実際には飛んでいってなんていなくて後回しにしているだけだなんて、気づきはしない。
社会は若者を甘やかして、でも、期限が切れたなら放置するだけ。
八神先生の担当は保健体育だ。それなのに、人体についてより社会について語ることの方がずっと多かった。
今にして考えれば、明らかにルール違反な先生だ。当時だってそう思っていた。でも、クラスの誰一人として反抗しなかった。親から学校にクレームがついたなんて話も聞かない。大学進学率がゼロに近い低偏差値な学校だからかな。きっと、それだけじゃない。
八神先生の奇抜さは新鮮で、ボクらが盛り上がるために最高に役立つ話題の種だった。ボクらは「こんな授業を受けていていいのかな」漠然とした不安を多少は抱きながらも、普通とされる高校生活との差異に優越感を持っていた気もする。「八神先生の授業を受けている自分たちは特別だ」心のどこかで思っていたんだろう。自らなにも行動せず喜びを得るなんて、八神先生が最も嫌いそうなことだ。「八神先生がもっとちゃんと授業してくれてれば今の状況も少しは違ったかもしれない」こんなことを考える時点でダメなんだろう。
八神先生は世界繁栄と滅亡についての持論を三十分ぐらい語ってから、ボクらに宿題を出したんだ。
「来週の授業までに世界滅亡の方法について作文を書いてこい。どうすれば世界を滅亡できるか必死に考えるんだ。たまには脳みそ使え」
教室内、うざったさと楽しさが入り混じった「えー」が至るところから上がった。八神先生はそんな声を気にする素振りなく、原稿用紙を配った。一人五枚ずつだ。学生たちは不快げにしたり笑ったりしながら原稿用紙を鞄なりにしまっていく。
その日の帰り道、学校から駅までの通学路、ボクは御手洗と歩いていた。男子高校生二人、周囲の大人たちには希望に満ち溢れて見えていたのかな。
「御手洗のクラスも出されたかな。世界がどうすれば滅亡するかって作文の宿題。八神先生の宿題って、いつも意味不明だよな」
まだ明るい時間帯、住宅街の大きな通り、ボクは言った。少しでもたくさん話したくて、ゆっくり歩いていた。二年生に上がりクラスが別々になったばかりだったんだ。一年生のときに比べて共に過ごせる時間が減ったことで、焦りに似たものを少し感じていた。
「そんな宿題出されたんだ。うちは出されてないよ」
御手洗は力なく微笑み、答えた。疲れがありありとしていた。
「そっか。そのうち出されると思うよ。それとも、またいつもの気紛れかな」
ボクは御手洗の様子に戸惑いながら言った。
信号が赤になり、ボクらは立ち止まった。しばらく沈黙が続いた。
当時、会話がスムーズにいかないことが多くなっていた。「別々のクラスになってもたいした問題じゃないさ。授業が違うってだけで、休み時間は会えるし」深く考えずそう話していた過去とのギャップがさらなるぎこちなさに繋がる。
信号が青になり、ボクは口を開いた。
「宿題、どうしようかな。世界滅亡の方法なんて思いつかないよな。そんな簡単に思いつくなら誰かやってるだろうし」
ボクは横を歩く御手洗に視線を向けた。どこか困惑気味の笑顔だった。
正面を向き直すと、数十メートル先の高架上を黄色い電車が走っていた。電車がやけに無機質に見えて、世界をとても遠くに感じた。
「岸田は、考えたことないかな」
御手洗が尋ねてきた。
「なにを」
ボクは尋ね返した。
「世界がなくなればいいって」
御手洗は抑揚のない口調ではっきりと言った。
ボクはその表情を見ることができず、ただ前を向き続けていた。
「どうだろう。よくわからないや」
とりあえずの言葉を口にして黙った。
御手洗も黙っていた。
あのとき少しでもなにかを話していれば、それが役に立つことでも立たないことでも、今が少しは変わっていたのかな。
御手洗はボクが向き合っていないものと向き合っていた。
一年生の二学期まで、御手洗は明るかった。暗さを滲ませるようになったのは三学期からだ。家庭の事情で悩んでいた。両親が離婚しそうだということを知った。それしか知らなかった。深い部分には触れないようにしていた。あの頃はそれが友達としての気遣いだと信じる必要もないぐらいに信じていた。
無力さに後付けの理由をつけていただけだったのかもしれない。
互いに帰宅部、読んでいるマンガ雑誌が同じ、人見知りがち、そんな共通点を元にボクらは友達になった。でも、友達を続けたのは共通点があったからじゃない。理屈じゃないもっと感覚的な部分で惹かれ合っていたからだ。
ボクは家に帰り、机に向かい、世界滅亡の方法について考えた。考えながら、御手洗のことばかりが思い浮かんだ。「世界を滅亡する方法がわかったなら御手洗はどうするだろう。実行されたならどうしよう」ボクは悩む。「そんな方法あるわけがない。けど、実現から程遠いアイディアでも、話せば御手洗が少しは明るく笑ってくれるかもしれない」ボクは辞書を捲りながらアイディアの糸口を探した。「方法があるとしても、実現したりはしない。だってボクがいる」一週間、日によっては夜中まで、多くの時間を作文に費やした。
爆弾を作るとか隕石が落ちるのを願うとか、幼稚園児並のアイディアしか浮かばなかった。頭が柔軟な幼稚園児の方がもう少し使える発言をしそうだ。あまりに低レベルすぎて話の広げようもないから、それらのアイディアを御手洗に話すことはできなかった。話していればよかった。
二人でカラオケに行ったり、ファミレスでくだらないテレビ番組の話を延々としたり、遠回しな励ましばかりをボクは選んだ。卒業までずっとそうだった。御手洗の母親が実家に帰ったことを知っても、具体的な何一つとして口にできなかった。
卒業すれば事態が好転する、そんなこと思っていないのに思っている振りをした。
卒業式のあと、御手洗と職員室に行った。先生たちへの挨拶のためだ。
「三年間ありがとうございました」
整頓されていない書類だらけの机の前、ぼうっとシャーペンを回している八神先生にボクらは言った。
「おう」
八神先生は感慨に浸っている様子なんて微塵もなく答えた。
「先生のこと、忘れませんよ」
ボクは白々しさを装って言った。
「ボクらのことなんてどうせすぐに忘れちゃうんでしょうけどね」
御手洗は笑いながら言った。ボクは上手に笑えなかった。
「それがどうかは将来自分たちで確かめるんだな。三年後ぐらいにでも会いに来いよ。名前を覚えてるか知るためにさ」
八神先生はそう話して笑った。「自分たちで確かめるんだな」その言葉の八神先生らしさが面白くて、同時に、他の先生たちのどんな優しい台詞よりも温かかった。
今、どうしているだろう。問題を起こしてクビになっていそうだ。それとも、今も変わらず個性を放ち続けていたりするのかな。
会いに行ったなら「人に言われた通りにするなんて単純すぎる」笑われそうだ。
笑ってほしいな。
あれから五年が経ったんだ。
真っ暗な部屋のふとんの上で過去を振り返って泣きそうなボクがここにいる。今のボクを見て八神先生はどう思うだろう。泣きたければ泣けって言ってくれるのかな。
人の声が聞きたい。
「悪いけど、どうしようもないことなんだ。納得してくれ」
店長に言われた。二時間前だ。正社員になる話が一度も出なかった時点でこの状況を覚悟しておくべきだったのかもしれない。
バイト、本当にクビになったんだよな。夢だったらいいのに。フリーター生活を脱する絶好の機会だって思える人間になりたい。どうせ永遠にバイトしているわけにはいかないんだ。
電気代、どうしよう。
クビになったのは店の経営上の問題だからしようがない。
ボクがめちゃくちゃ優秀ならクビになんてされていない。
御手洗、どうしているかな。一年近く会っていないな。
高校三年間の多くを一緒に過ごした。今だって連絡を取り合っている。それでも、悩みをしっかりと聞いてあげられたことはまったくない。
電話の向こうの御手洗はいつも明るい。無理して明るく振る舞っているだけだろう。
卒業して事務として就職した会社、まだ続いているのかな。家族の話どころか仕事の話も遠ざけてばかりだ。名字、変わったんだよな。古い名字でしか呼ばない。なるべく名字を呼ばずに済むようにしている。新しい名字、聞いていない。友達の名字を知らないって、どうなんだろう。
世界滅亡の作文、回収されなかったな。八神先生、宿題を出したこと、忘れたのかな。大切なのは考える過程でそれを評価する必要なんてないってことかな。
今度、提出しに行こうかな。もう当時の作文は残っていないから、書き直すことになる。
世界滅亡、どうすればできるだろう。できやしない。目に映る太陽も月も、街も道も、ボクには壊せない。ボクに壊せるものなんてほんの一握りだ。
壊せるものは壊したくない。壊せるものは壊さずにもいられる。壊せるものは守れるものってことかな。
世界滅亡って、なんだろう。
ボクが死ねば世界滅亡だって考えはダメかな。ボク一人が死ぬことも世界の全員が死ぬことも、ボクの視点で見れば同じだ。
疲れたな。
身体、重い。
世界全員が死んだなら、誰も泣かない。ボクが死んだなら、泣いてくれる人がいる。
二人で八神先生に会いに行こうか。昔のボクらに戻れるかもしれない。
御手洗、飯にでも誘おうかな。
なんか今なら、深い話をできそうだ。