ひとりがふたり
きっと夢だ。そう、夢に決まっている。こんなこと現実に起こるはずがない。
頬をつねると、普通に痛い。
子どものとき、誕生日プレゼントが嬉しくて信じられなくて、やっぱり同じように頬をつねった。あのときのオルゴール、実家の押入れにまだあるかな。
「ねえ、ユウイチ」
わたしは言う。
「なに」
正面であぐらをかいている二人のユウイチの声がぴたりと重なる。
わたしはまた頬をつねる。
「隠してたけど実は双子だったってオチじゃないわよね」
わたしが質問し
「そんなわけないだろう」
二人のユウイチが同時に答える。
夢というより、コントだ。
長男だからユウイチと名づけたという両親は、二人を見たならなにを思うだろう。
「だって、信じられるわけないじゃない。朝起きたら自分が二人になってたなんて」
「オレだって信じられないよ」
二人のユウイチが不愉快そうに互いを見る。
どちらも同じ外見で、同じ髪型で、同じ雰囲気を漂わせている。服は分裂しなかったようで違うけれど、二人ともどう見たってわたしの恋人のユウイチだ。
「なにをどうしたらいいかわからないけど、とりあえず二人の呼び名は決めた方がいいわよね」
わたしは提案する。
二人は互いを睨みつけている。
「ユウイチA、ユウイチBでどうかしら」
わたしは右側のユウイチ、左側のユウイチを順番に指差す。
「どうしてこいつがAでオレがBなんだよ。逆だろ。オレが先だからAだ」
左側のユウイチが苛立ちをあらわにして言う。「じゃあ逆にしましょう」もしもそう言ったなら、今度はもう一人のユウイチが反抗するんだろう。ややこしい。
「じゃあ、あなたが右ユウイチ、あなたが左ユウイチ」
わたしから見て右側に座る風景写真がプリントされたTシャツを着ている方が右ユウイチ、左側に座るビンテージもののジーパンを履いている方が左ユウイチだ。うん、覚えた。でも、わたしが席を外している間に服を交換されたなら、絶対に判断できない。
「右の方がなんだか偉そうだ」
左ユウイチが言う。
「呼び名なんてどうでもいいよ。どうせこいつ、追い出すから」
右ユウイチが言う。
「追い出されるのはお前だろう。ふざけんなよ」
左ユウイチが言う。
「黙れ、偽者」
右ユウイチが言う。
頭がおかしくなる。自分相手なんだからもっと仲良くすればいい。
互いの気持ちが完璧にわかっているはずなのに、どうしてこうなるのか。
「ねえ、ケンカするのはやめようよ。冷静に話し合わないと」
「冷静になんてできるわけないだろう」
わたしの意見を二人はずれなく否定する。いがみ合っているのに呼吸はぴったりだ。もういっそのこと、二人が付き合えばいいんじゃないか。
「とりあえず、二人同時に喋るのはやめて。聞いててなんか辛い」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
また二人同時に言う。
「簡単なことじゃないの。右ユウイチ、左ユウイチが交互に喋るようにすればいいのよ。それぞれの言い分をさ」
「なんでこいつが先なんだよ」
左ユウイチが文句をつけてくる。
いい加減にしてほしい。
「どっちが先でもいいじゃないの。とにかく、従いなさい。さからわないで」
わたしは厳しさを込めて言う。
左ユウイチは不快そうながらも、沈黙する。
「まずは右ユウイチから。ねえ、どうしてもっと冷静になれないの」
「なれるわけないだろう。オレは一人分の人生を歩んできて、オレが突然二人になって、これからどうしろっていうのさ。オレがオレの役を奪われたら、オレはどうするのさ」
オレばかりでわかりづらいけれど、言いたいことはなんとなく伝わってくる。
わたしがわたしであることを奪われたなら、名前や経歴や家族や恋人を失ったなら、途方に暮れるだろう。
「じゃあさ、次は左ユウイチ。二人が一日交代でユウイチになるってのはどう。奇数の日は右ユウイチがユウイチの順番、偶数の日は左ユウイチの順番。三十一日の分、奇数が多いから、そこはうまく調整ね。社会人になっても半分休めるし、楽でいいでしょう」
わたしからすればどちらも同じユウイチだ。たとえ二人と交互にデートすることになっても、今となんら変わりがない。一人と付き合いながら二人と付き合うんだから、ちょっとお得かもしれない。戸籍は一つだから、二人と結婚することもできる。
「いいわけないだろう」
左ユウイチが言う。明らかに納得していない表情だ。
「そうだ。いいわけがない」
右ユウイチも言う。左ユウイチとまったく同じ表情をしている。
「こいつをサナに触れさせたくない。絶対に」
左ユウイチは右ユウイチを睨んできつい口調で言う。
「オレだってそうだ」
右ユウイチは左ユウイチを睨んできつい口調で言う。
ユウイチって、独占欲の強い男だったんだな。大学一年のときから交際を始めてもうすぐ三年、こんなユウイチは初めて見る。独占欲とかそういう問題じゃないのかな。
以前、男友達と飲みに出かけても何も言わないユウイチに「もう少し嫉妬してよ」冗談っぽく真剣に話したことがある。なんか、すごい昔のことみたいだ。「わたしの気持ちなんて全部ユウイチ次第なんだよ」甘えた声で肩を寄せたときのこと、二人とも覚えているかな。
二人と交互にデートしたなら、思い出は分割されるんだ。
「こいつはオレじゃない」
二人は言う。
「オレはオレだ」
さらに二人は言う。
この部屋がこんな険悪な空気になるの、これまでで初めてだ。自分の部屋なのに、居心地が悪い。引っ越せば済む問題じゃない。どこかに逃げてしまいたい。逃げちゃいけないことぐらいはわかる。
過去、ユウイチと二人きりのときは、穏やかだった。それなのに、ユウイチとユウイチと三人になったなら、この状況だ。
「お前はオレじゃないんだからどっかに行けよ」
二人が言う。
「どっかに行くのはお前だろう」
さらに二人が言う。
分裂した瞬間までは確かに一人の人間だった。でも、二人になった時点で、同じ遺伝子で同じ記憶でも、別人なのかもしれない。一秒に一秒ずつ、違う一秒を体験するに連れて、もっと別人になっていく。そしてやがて声が重なることもなくなる。
将来、どちらかだけを好きになる瞬間が訪れるのかな。
「じゃあ、やっぱり、どちらか選ぶしかないのね」
わたしは呟く。
二人は鋭い視線をわたしに向ける。
胸が重い。
「だって、このままじゃ、楽しくなれないもの」
選ぶ、そう口にしたのはわたし自身だ。
選ぶって、どうやって選ぶんだろう。
二人ともわたしの好きなユウイチだ。違いなんてない。
選べるわけがない。
「サナ」
二人が微笑む。
「そんな悲しい顔するなよ」
温かい声をかけてきてくれる。
やっぱりユウイチだ。
「しようがないもんな。オレたちで決めてくるよ」
二人は言い、互いの視線を合わせ、立ち上がる。等しい歩調で玄関へと歩く。
ドアの前で並んで靴を履く。
見慣れた後ろ姿が二つ、外へ出て行く。
ドアが閉まる。部屋にはわたし一人になる。
一人の部屋って、こんなに静かだったんだな。ユウイチが遊びに来ているとき以外は大抵一人なのに、気づかなかった。
部屋、広いな。狭いかな。よくわからない。
ユウイチの部屋に行くよりわたしの部屋に来ることの方がずっと多かった。こっちの方が大学に近いからだ。
ユウイチといるときは、一人暮らしだってことを忘れた。
ベッドの枕元にいるピンクのウサギのぬいぐるみ、住み始めの頃に買ったんだ。一人暮らしの寂しさを紛らわしたかった。ユウイチと出会ってからは、のろけ話を聞かせる相手になった。
もしも一人になったなら、今のわたしは、ぬいぐるみが百個あっても耐えられない。
この部屋でユウイチとたくさん過ごした。試験について、クラスメイトについて、就職について、欲しい子どもの数について、死の瞬間は恐いから二人同時に迎えたいということについて、いっぱい話した。もっと話したい。
今、二人は外でどんな話をしているんだろう。
わたしには二人のうちの一人を選べなかった。二人になら選べるんだろうか。
選ぶことを放棄するかもしれない。不公平だからと二人揃ってわたしの前から姿を消すかもしれない。わたしは一人になる。独りぼっちになる。
ユウイチがいなくなるなんて、考えたことなかった。
ユウイチもわたしがいなくなるなんて、考えたことなかったかな。きっと、考えたことない。
想像しなかった苦しみを片方に背負わせるぐらいなら、二人で背負うんじゃないか。
さっきまでケンカしていたし、考えすぎかな。
考えすぎじゃないかな。
涙が、出てきた。
嫌だ。
ドアが開く。固い表情をした二人が入ってくる。わたしを見て表情がさらに固くなる。
自分の心臓の鼓動が、聞こえる。
二人はさっきと同じようにわたしの正面に並んで座る。
右ユウイチも左ユウイチも、ユウイチだ。
「泣くなよ」
二人のユウイチが優しく言葉を紡ぐ。
「ねえ、三人でいるのは、やっぱり無理なのよね」
わたしが問いかけ、二人がうつむく。
「それは、無理だよ。オレたちは、別人だから」
右と左から同じ声が悲しく聞こえる。
「そう。そうよね」
「うん」
「話し合い、どうなったのかな」
「ジャンケンで決めることにした」
「ジャンケン」
「オレとしての権利は全部ジャンケンで勝った方のもの。幼い方法だけど、他に決めようがないからさ」
「そう、かもね」
二人は顔を上げ、真剣な視線でわたしを見つめる。
「見ててくれな。決定の瞬間、サナには見ていてほしいから」
「うん。ちゃんと、見るよ」
「ああ。ありがとう」
右側のユウイチと左側のユウイチ、二人は向き合い、手を上げる。
「ジャンケン」
同時に手を下ろす。二人ともグーだ。「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともチョキ「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともグー、あいこが続く。やっぱり同じ思考の持ち主だ。二人ともユウイチだ。
胸が痛い。涙が止まらない。こんな緊迫したジャンケン、他にはない。目を逸らしたい。逸らしちゃいけない。
三人で過ごすの、本当に無理なのかな。
子どものとき、誕生日プレゼントになにが欲しいか、母親に聞かれた。オルゴールとガラス細工、なかなか選べず悩んだんだ。
あのときのわたしは、オルゴールを選んだ。
オルゴールを貰ったとき、ガラス細工のことなんて頭から消えた。しょせんは物だからだ。
ユウイチのことは、忘れられない。
わたしの気持ちって、こんなに不器用だったんだな。まるで子どもみたいだ。
十九回目のあいこ、二十回目のあいこ、二十一回目のあいこ、二十二回目のあいこ、二十三回目のあいこ、二十四回目のあいこ、このままあいこが永遠に続けばいいのに。二十七回目のあいこ、二十八回目のあいこ、いっそのことどっちのユウイチもいなくなるのが一番楽かもしれない。それで将来、わたしがお母さんになる頃「あのときは大変だったね」なんて三人で無邪気に笑い合うんだ。
笑い合えるわけがない。
「ジャンケン」
振り下ろされた右側のユウイチの手はグー、左側のユウイチの手はパー、違う手の形だ。決着、ついたんだ。ついちゃったんだ。
わたしは目を逸らす。
「オレの負けだな」
ユウイチの声が聞こえる。
「そうだな」
ユウイチの声が聞こえる。
ユウイチのため息が左右から聞こえる。
わたしは両手で両目をこする。
「約束だもんな。オレ、出て行かないとな」
わたしの視界の右端、ユウイチが立ち上がる。目を向けると、後ろ姿しか見えない。
「ユウイチ」
わたしは言う。うまく声が出ない。
立ったユウイチが振り返る。見慣れた高さから、わたしに微笑む。
背伸びしてキスをした、いつもの高さだ。
「サナ、幸せにな」
再びわたしに背を向け、玄関へと歩く。
わたしから、離れていく。
離れているのはわたしかな。
ユウイチは靴を履き、ノブを握る。ノブを回し、外へと出て行く。
ドアが閉まる。
部屋にわたしたちだけが残る。
二人だけが残る。
「ねえ、ユウイチ」
「なに」
ユウイチは重たい無表情で真っ白な壁を見つめている。
「もう一人の自分と二人でここからいなくなろうとか、考えなかったのかな」
「考えないよ」
「どうして。その方が、公平でしょう」
「そんなことしたら、サナ、悲しむだろう」
「そう、ね。悲しいね」
「だからだよ」
「ありがとう」
「お礼なんていらないよ。オレたちのためでもあったんだから」
ユウイチはわたしを見ようとはしない。
もう一人の自分のことばかり考えているんだろう。わたしと同じだ。
「ちょっとトイレに行ってくるわ」
「ああ」
わたしは立ち、ユウイチの左側を通り過ぎる。
トイレのドアを開け、中に入る。
閉めたドアにもたれ、床にしゃがみ込む。
涙、やっぱり止まらない。
ユウイチも泣いているのかな。
部屋を出たユウイチは、どこに向かうんだろう。家に帰るのかな。帰れないんだ。さっきのジャンケンで自分がユウイチであるということを失った。二十二歳でのゼロからの始まりは、マイナスからの始まりだ。
ユウイチは今、わたしに会いたがっているかな。
冬に公園のベンチに座って二人でたこ焼きを食べたこと、夏に突然雨が降り出したから傘を買って店から出たならもうやんでいたこと、夜にわたしが部屋で転んで血が出たときにバンソウコウを笑えるぐらいたくさん買ってきてくれたこと、すべての思い出にこっちのユウイチもあっちのユウイチもいたんだ。わたしは忘れない。ユウイチも忘れない。
どっちのユウイチとも恋人でいたい。どっちのユウイチとも抱き締め合いたい。独占欲が強いのは、誰よりもわたしかな。
追いかけたい。追いかけよう。
これも浮気なのかな。