思い出墓場

思い出墓場(1)

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 隣に立つツヨシは今日も辛そうな笑みを浮かべている。辛そうなのがツヨシにとっての普通だ。
 吹き抜ける爽やかな風がツヨシの表情を変えてくれたりはしない。
 昔、ずっと微熱があれば微熱を平熱として受け止められるようになるのかって、ボクは考えた。そんなことはない。だって、ツヨシは辛さを受け止められていない。
 金網の向こう側、校庭ではサッカー部と陸上部が元気良くジョギングしている。屋上から見る学生たちは誰もが小人以上に小さくて、表情なんてわからなくて、でも、楽しんでいることがなぜかしっかりと伝わってくる。みんな、学生時代を満喫している。
 彼らの目にボクらの姿はどう映っているんだろう。
 映っていないのかな。
 同じ制服姿で、でも、仲間じゃない。
「今日さ、辛いことがあったんだ」
 金網にもたれかかり、空を見上げながらツヨシは呟く。
 今日も辛いことがあったんだな。楽しいことがあったんだって言わせたい。
「なにがあったのかな」
 ボクは尋ねる。
 ツヨシはうつむき、唇を重そうに開く。
「ホームルームで多数決があったんだ。そのとき、ボク、手を挙げられなかった」
 ツヨシの表情はほとんど見えない。でも、わかる。
「なんの多数決だったのかな」
「来月の学園祭の出し物をなににするか。なんか、ボク、どれがいいか決められなかったんだ」
「いいんじゃないの。決められないってのも、ある種の意思表示みたいなものじゃん。甲乙つけがたいとか、どれも同じようなものっていう」
「手を挙げられなかったのが辛かったわけじゃないんだ。まあ、辛くなかったわけでもないけど」
 ツヨシの声、段々小さくなっていく。
「じゃあ、なにが一番、辛かったのかな」
「手を挙げないの、ボクだけで、委員長にどれがいいかもう一回、聞かれた。けど、黙ったままで、答えられなかった。そのとき、クラスメイトが、あいついなくても同じだって、不愉快そうに、言ったんだ」
 いなくても同じ、ひどい言葉だ。
 言ったやつを呼び出して殴ってやりたい。そんなことをしてもツヨシは喜ばない。
 どうすればツヨシは喜ぶのかな。
「忘れなよ」
 ボクは言う。
「忘れられないよ」
 ツヨシはさらに小声で呟く。
「まあ、確かに、クラスメイトの言う通りだよね。多数決で手を挙げることすらできないんじゃ、ボク、いる意味、ない。悪いのはボクだ」
「ボクと友達でいるんだから、意味、あるでしょう」
 風が吹く。ツヨシの前髪がほんの少し申し訳なさそうに揺れる。
 ツヨシはボクの言葉に対して、口を閉じたままでいる。
 ツヨシはクラスでいつも独りぼっちだ。独りぼっちな上に、周りは放っておいてくれない。でも、休まず遅刻せず学校に来ているんだから偉い。
 風が吹く。
 ボクはため息をこらえる。
 汗が出てきた。
 もうすぐ夏が訪れる。暑い季節だ。温暖化なのかな。温暖化ってなんだろう。とにかく夏は暑い。みんなは海や旅行を楽しむんだろう。思い出を一生懸命作って、将来の糧にする。未来のボクらは、この今を、どう振り返るんだろう。夏が終わると秋で、秋が終わると冬で、冬の次は春でその次はまた夏で、秋と冬を過ぎればもう卒業だ。
 夏は好きじゃない。楽しめと急かされている感じがする。
 学園祭、秋にやればいいのに。
 秋にやったとしても、冬にやればいいのにと思うのかな。
「カズヒト、ボクなんかと友達で、なんだか、ごめん」
「どうして謝るのさ」
「カズヒトは勉強もスポーツもできるし、クラスメイトとも仲良く話せるし」
「謝る理由に全然なってないって。そもそも、勉強もスポーツも平均だよ。クラスメイトともうわべだけだしさ」
「ボクよりは、ずっとすごいよ」
「そんなことないって」
「そんなこと、あるよ」
「顔、上げな。下向いてるとどんどん落ち込むよ」
「うん」
 ツヨシはボクの言う通り、顔を上げる。
 いつもと同じ辛そうな微笑みでボクを見つめる。ツヨシはいつからこうなんだろう。ボクはこんなツヨシしか知らない。生まれたときからこうなのかな。
 胸が痛い。
「家、帰りたくないな。このままずっと、ここにいたい」
 ツヨシは金網越しの水色の空に目を向けて言う。
 ずっとここにいればいい。
「お父さんとお母さん、まだ、仲悪いのかな」
 ボクは聞く。
「うん。ずっと。ケンカばかりしてる。家にいると苦しい」
「お兄さんとお姉さんは」
「仕事忙しいみたいで、連絡ないよ」
「休日に帰ってきてもらえば。お父さんとお母さんの仲介役としてさ」
「無理だよ。前に頼んだけど、面倒臭いって断られた」
「そっか」
「うん」
 ツヨシは教室にも家にも居場所がない。
 放課後はほとんど他の誰も来ないこの屋上、ここだけが居場所だ。
「ツヨシ、帰るの、やめたら。ずっとここにいればいいじゃん。屋上にさ」
「そんなこと、できるわけないよ」
「帰りたくないなら、ロープで縛ってあげようか。そうすれば帰れないよ」
「それ、いいアイディアかもね」
 ツヨシは少しだけ楽しげに笑う。
 ボクも笑う。
 ボクもここにいたい。明け方をツヨシと迎えたなら、日の出はどんな風に見えるだろう。不眠で一睡もできず迎えた朝と違って、美しくて涙が流れるかな。
 学園祭のときもボクらはこの屋上にいるかもしれない。みんなが楽しく騒いでいる中、静かに二人で過ごす。
 ここなら、二人だけになれる。

思い出墓場(2)

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 こうして一人で部屋にいると、世界にボクしかいない気持ちになる。
 闇が少しずつ背後から迫ってきて、やがて、ボクをすっぽりとあっけなく飲み込んでしまいそうだ。
 ここに突然、包丁を持った強盗が乗り込んできたなら、ボクは震え、抵抗すらできず、刺し殺される。
 一人は、嫌だ。
 幼い頃のボクにとって、自分の暮らす町が全世界だった。けれどやがて、自分が暮らす町は県の一部でしかないことを知り、県は日本の一部でしかないことを知り、そして日本が世界の一部でしかないことを知る。地球は宇宙の一部でしかなく、そして、もしかすると宇宙もなにかの一部でしかないかもしれない。外に出ると数え切れないぐらいたくさんの人たちがいて、けれど、世界の全人口からすればゼロに等しい。日本の人口ですら二パーセントぐらいでしかない。
 幼い頃のボクは、世界で最も多くの人が暮らす町に住めば未来は可能性に満ち溢れるのだろうと楽しく想像した。良いことが起こる可能性と同時に悪いことが起こる可能性も増すなんて考えなかった。
 もしもボクら以外の全学生が転校することになったなら、ツヨシは心の底から喜ぶ。ツヨシにとって出会いの数というのは、増えれば増えるほど不幸を招くものだ。
 社会人たちは、学生時代はよかったと頻繁に口にするらしい。ツヨシを見ても言えるのかな。
 過去は美化されるなんて話をたまに耳にする。それって本当だろうか。ひどく苦しい過去も、いつの日か僅かに苦しい過去に変わってくれるのか。
 ボクにも嫌な過去はたくさんある。思い出なんて綺麗な呼び方をしたくない過去だ。
 小学四年の夏、プールの時間、水着のお尻が破けた。割れ目がはっきりと見えるぐらいにだ。クラスメイトたちはそれをひどくバカにした。プールの時間の前までは親しかった友人たちに遠慮なく罵られる。彼らは罵っているつもりなんてなかったのかもしれない。子どもなんて残酷なものだ。自分がしていることがいじめだと認識できず、ただ対等に遊んでいるつもりだったのかもしれない。
 プールで水着が破れた、それだけのことで卒業まで「おしり」と呼ばれた。
 中学二年の夏、隣のクラスの女子に告白された。放課後の図書室で好きだと言われた。名前すらも知らない相手からの突然の告白、ボクは一瞬、冗談だろうと考えた。でも、彼女の真剣な表情がそんな考えを吹き飛ばした。ボクは彼女から目を逸らし「君のことよく知らないから。ごめん」そう答えた。彼女はそれ以上なにも言うことなく、図書室から駆け出ていった。次の日以降、ボクは全女子にシカトされるようになった。理科の実験や家庭科の調理実習で同じ班になったときすら、まったく口を利いてもらえない。どうやら告白してきた女子がひどい振られ方をしたと周囲に話したことが原因らしい。「気にするなよ。どうせすぐに元に戻るさ」仲の良い男子たちが励ましてくれた。けれど、女子たちとの関係は元通りになんかならなかった。事務的な会話ぐらいはするようになったものの、笑顔で接してくることは卒業まで一度もなかった。
 ボクに告白してきた彼女と廊下で擦れ違う機会が何度もあった。その度、彼女はボクから目を逸らした。露骨に不快そうな顔をした。ボクはなんだか悲しくなり、そして、申し訳ないことをした気持ちになった。ボクの断り方に問題があったとは思わない。でも、彼女を不快にさせたのは紛れもない事実だ。
 こんな思い出したくない過去たちも、美化されているんだろうか。当時のボクに聞かないとわからない。確認する術はない。
 嫌な過去がたくさんある。嫌な現在もたくさんある。
「忘れなよ」
 今日、落ち込んでいるツヨシにボクは言った。
「忘れられないよ」
 ツヨシは答えた。
 本当に忘れられないのかな。
 記憶というものが美化されてしまうぐらいに曖昧なものなら、意識的に変化させることも可能なんじゃないか。
 思い出すだけでここじゃないどこかへ逃げたくなるような過去なら、記憶の奥底に埋めてしまえばいい。
 なくなってしまえばいい。

思い出墓場(3)

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「今日ね、辛いことがあったんだ」
 ツヨシは呟く。
 まるで昨日にいるみたいだ。
 ツヨシは毎日、この放課後の屋上で、喜びのない微笑みで苦しさを吐き出す。
 どんな過ごし方をしても時間は一秒に一秒ずつ流れているって、なんだか不公平だ。
 校庭では今日も運動部員たちが走っている。彼らは毎日成長を実感しているんだろうな。
「なにがあったのかな」
 ボクは尋ねる。
「五時限と六時限の間の休み時間、することがなくて教科書を読んで予習してたんだ」
「いいことじゃん」
「そうだね。いいこと、なんだよね。けど、そのとき、声が聞こえたんだ。あいつ、勉強ばかりしてるわりには頭悪いよなって。誰が言ったのかは、わからなかったけど」
「気にしなくていいって。努力するのは、いいことだよ」
「でも、正しいよね、その言葉。いくら勉強しても、平均点が精一杯だもん」
「平均点ってことは、真ん中じゃん。落ち込むこと、ないよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。それに、実は周りはみんな、家に帰ってから徹夜で猛勉強してるかもしれないし」
「それだと、ボクは努力が足りないってことになるね。どっちにせよ、ダメだ」
 ツヨシは自嘲するように笑い、人差し指で首筋を掻く。
 ツヨシはどんな物事も否定的にしかとらえられない。
 ボクとの友情は、どうなのかな。
「ボクの名前、強いって字でしょう」
「うん」
 強と書いてツヨシだ。
「父さんと母さんは、強い子になってもらいたいって願いを込めてこの名前にしたんだ。期待、裏切っちゃったな」
「裏切ってなんかないよ。ちゃんと強いじゃん。しっかり生きてる。人をバカにする連中より何百倍もマシだよ」
「強くないよ。こうして弱音ばっかりだし。名字も、十文字って、なんか強そうなのにね。名は体を表すって、嘘だね。本当だったらいいのに。けど、こんなこと言ってるからダメなんだね。弱音しか言えない」
「弱音、ボクの前でだけだろう」
「うん」
「別に嫌って思ってないし、好きなだけ言いなよ」
「ありがとう。カズヒトは優しいね」
「優しくなんてないよ」
 優しくない。
 強くもない。
 小学生時代、悪口を言われたとき、ボクは少し登校拒否した。ツヨシは皆勤賞だ。この差は、とてつもなく大きい。
「嫌なことは、忘れようよ」
 ボクは言う。
「どうやったら忘れられるのかな」
 ツヨシは言う。
「まあ、忘れられるわけ、ないか」
 ツヨシはさらに言う。
「忘れられるかもしれないよ。昨日、帰ってから、考えたんだ。どうすれば嫌なことを忘れられるか」
「ありがとう。ボクのために」
「ツヨシのためだけじゃないよ。自分のためでもあるさ」
「カズヒトにも嫌なこと、あるんだね。まったくないわけはないだろうけど」
「少しだけ。まあ、人並みにね」
 人並みって、なんだろう。人の心の中なんてわからない。
 でも、人の辛いという言葉は、信じよう。
「それで、考えてみて、どうだったのかな」
 ツヨシの目はいつでも清く澄んでいる。
 ボクの答えへの期待を感じる。
「ずっと考えて、それで、できる気がしてきたよ、忘れること。だって、人間の記憶なんて不確かじゃん。一週間前の夕飯も思い出せない。たとえば、今、ツヨシが、一週間前にカレー食べたって話してたよって言ったなら、きっとボクは、自分がカレーを食べたんだと思える。実際は食べてなくてもね。記憶を塗り替えられる」
「そうだね。そうかもしれない」
「だからさ、今すぐに嫌なことを忘れるのはできないとしても、時期を置けば嫌なことも忘れられるんじゃないかな。そして、その時期を短くするための工夫はいくらでもある」
「たとえば」
「日記を書くんだ。嘘の日記を」
「嘘の日記って、どういうこと」
「嫌なことなんてなかったかのように日記を書くんだ。そうすれば、いつか読んで過去を振り返るとき、楽しさだけの毎日だったって思えるんじゃないかな」
「面白いアイディアだね」
「やってみようよ」
 ツヨシは頷く。
 少しだけ微笑みが軽くなって見える。気のせいかな。
「嫌なことを忘れるためのアイディアより、カズヒトがどうすれば忘れられるかを考えてくれたことが一番嬉しいよ。本当に、ありがとう」
 ツヨシの目は真っ直ぐにボクを見つめている。
 お礼をしっかり言えるって、きっとものすごいことだ。
「ありがとうなんていらないって。ツヨシのためだけじゃないんだからさ」
 このアイディアがたとえ確かなものだとしても、次々に嫌なことが起こったなら意味がない。忘れても忘れても、黒い記憶が新しく生まれてくるんだ。忘れる前に積み重なるんだ。それを多分、ツヨシもわかっている。わかっているけれど、言わない。ツヨシは優しい。
 ツヨシはいつでも辛そうにしている。
 ツヨシはボクに特別な辛さをくれる。

思い出墓場(4)

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 ツヨシが今日、自分の名前の話をしていた。ツヨシって名前、嫌いなのかな。それとも、重荷だとしても好きなのかな。
 一人と書いてカズヒト、この名前は好きじゃない。人を一番に大切にするようにという気持ちが込められている。でも、自分が孤独だって意味にしか思えない夜がある。
 こんな一人の部屋は、どうあがいても好きになれそうにない。
 この町で暮らすボク以外のすべての人間が、今頃こっそりと夜逃げしているかもしれない。もしも住人がボクだけしかいなくなっても、町は町を名乗ってよいのかな。
 もしも世界のボク以外の人がいなくなったなら、ボクの名前を呼んでくれる相手は誰もいない。ボクは名前を失っても困らない。でも、失いたくない。ツヨシがカズヒトと呼んでくれた過去を大切にしたい。
 ずっと今のままでいたい。
 ツヨシは昨日「カズヒト、ボクなんかと友達で、なんだか、ごめん」そう謝った。罪悪感に満ちた声をしていた。ツヨシに謝る義務があるのなら、ボクも謝らないといけない。ボクの方が謝らないといけない。
 ツヨシの目にボクは、優秀な存在として映っている。ボクは優秀な人間であるかのように振る舞っている。偽っている。
 高校入学の日、ツヨシと出会った。教室内、周りは知らない人だらけだから、大抵のクラスメイトはかなり緊張している様子だった。最初から明るく近い席の人に話しかけるクラスメイトもいはしたけれど、少数だ。
 そんな教室内においても、ツヨシの居心地悪そうな感じは際立っていた。挙動不審だったりとか震えていたりとか、そういうあからさまな様子だったわけじゃない。身にまとっている空気が、今にも帰りたさそうだった。その場から走って逃げ出すんじゃないかと真剣に思った。
 だからボクは、ツヨシに話しかけたんだ。高校三年間で誰とも親しく接することはないだろうと考えていたのに、気付くと話しかけていた。
 自分と近いものを感じた。
 ツヨシにとってのボクは遠い存在で、でも、ボクにとってのツヨシは誰よりも近い。
 ツヨシに今のままでいてほしいと願ってしまうこんな夜があること、口が裂けても言えない。
「嘘の日記なんてどうやって書いたらいいか見当つかないな」
「じゃあ、これからここで一緒に書こうか」
「書きづらそう。机ないし」
「教室は」
「教室は、学校の中は、なんか嫌だな」
「それならファミレスは」
「人がいるところは、ちょっと」
「じゃあ、カラオケボックスは。別に歌わなくてもいいわけだし」
「お金、けっこうかかるんじゃない」
「この時間帯なら安いよ」
 今日の放課後、ボクらは屋上を出て駅近くのカラオケボックスへ行った。マイクを手に持つことなく、一枚のルーズリーフをテーブルの上に置く。
 宝くじが当たったとかテストで全国一位だったとかなんて書いても目的は達成されない。大きすぎる嘘はいくら時間を経ても真実を偽ってはくれない。
「どんな嘘を書けばいいんだろう」
 真っ白なルーズリーフを前にしてツヨシは言った。
「嘘の日記だからって、嘘を書く必要はないんだよ」
 ボクは言った。
 辛かったことを記さず、楽しかったことだけを残す。そうすれば記憶を塗り潰せるし、日常に楽しいことが溢れていると再認識できる。
「今日一日を振り返ってさ、辛かったこと以外を書くんだ。たとえば、お昼のパンが美味しかったとか、天気が良かったとか」
 ボクはそう提案した。そしてツヨシの手のシャーペンがやっと動き始めた。
 一時間半かけて、五行の日記が完成した。それはきっと他の人からすればなんの変哲もない平凡すぎる日記だろう。短いから惰性で書かれたものだと思われるかもしれない。でも、ボクらには最高に輝いて見えた。「カズヒトと二人でカラオケに行った」ツヨシがルーズリーフに書いたとき、嬉しくて涙が出そうになった。
 ツヨシは人の多い場所が苦手だ。だから、ツヨシと屋上以外で過ごすのは本当に久し振りだった。ツヨシと二人で相談しながら日記を仕上げていく過程は、これまでのどんな時間よりも充実していて、温かかった。
 日記を書くことでツヨシの気持ちが軽くなることを願った。
 ツヨシと今のままでいられることを願った。
 ツヨシが今のままでいることも願ってしまった。
 ツヨシの暗さの大きな原因に両親の不仲がある。解決してほしい。けれど、そこに仲間意識を見出しているボクがいる。
 ツヨシは知らない。ボクの両親も絶望的に仲が悪いことを、話していない。
 父さんと母さんは三年前、ケンカばかりにするようになった。それまでも特別仲が良い感じではなかったけれど、息子の前で怒鳴り合ったりはしていなかった。
 約二年前、母さんが家に帰ってこなくなった。理由はわからない。知りたくない。その半年後、父さんもほとんど帰ってこなくなった。仕事が忙しいからだと父さんは言う。実際は家にいるのが辛いから仕事を忙しくしているのだろう。
 今日、昨日も一昨日もその前もずっと、この家にはボクしかいない。ボクが動かない限り、この家の空気は動かない。一人の部屋と一人の家に違いがあることを、父さんと母さんがいるときは知らなかった。たとえ部屋に一人でも、家の他の場所に誰かがいると物音とかでけはいを感じられる。孤独が遠ざかる。昔の一人の部屋と今の一人の部屋は、別物だ。
 この家の住人がボクだけになったとき、周りの誰とも話したくなくなった。周りが悩みなんてなさそうに笑うのを見る度、憎しみが湧いた。周囲が憎くて、そして、周囲を憎んでいる自分がさらに憎い。
 ツヨシと出会って、ボクは変われた。
 父さんと母さんが帰ってこない状況に涙を流すことがある。でも、それよりも多くの時間、自分は幸せだと思える。
 ボクには苦しみを共有する友達がいる。
 ツヨシには共有しているつもりなんてない。寄りかかっているだけだと思っている。
 この関係は、ボクが事実をツヨシに話した瞬間、異なったものになる。
「苦しいときも、その苦しみを胸に隠すのが男らしいんだよ」
 昔、父さんがボクにそう話した。ボクは父さんの教えをちゃんと守っている。父さんが帰ってこなくても、守っている。
「男の子は人前で泣いちゃダメよ」
 昔、母さんがボクに言った。ボクは母さんの教えも守っている。
 たとえ二人の教えがなくても、ボクはツヨシに事実を話さないのかな。
 よくわからない。
 こうしてシャーペンを手にルーズリーフと向かい合っていると隣にツヨシがいる気持ちになる、これは確かだ。心が少し軽くなる。
 一人の部屋が、一人の家がほんのちょっと、平気に思える。
 朝までずっと、こうしていたい。

思い出墓場(5(完))

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 二年生に上がりツヨシと別のクラスになったとき、ボクは信じてもいない神様を恨んだ。でも、これで良かったのかもしれないという気もする。ツヨシはクラスに馴染めていない姿をボクに見られずに済む。
「今日は、なにもない一日だったよ」
 ツヨシはいつもより多少明るく微笑んで言う。
「よかったじゃん」
 ボクは言う。
「あまりになにもないから、なにかあるんじゃないかってビクビクしてたよ」
「臆病なやつだな。気にしすぎだよ。まあ、臆病者の方が長生きしそうだけど」
「長生きしたいから、臆病でいいかも」
 長生きしてほしい。ずっと長生きを望み続けていてほしい。
 ボクも長生きしたい。長生きしたいと思えるようになった。
 ツヨシは空を見上げる。
 ボクも空を見上げる。
 見渡す限りの雲が、光を遮っている。
 屋上から見る空は晴れでも曇りでも雨でも、心地良い。
「今日の日記は、なにもなかったって書けばいいのかな」
 ツヨシは尋ねてくる。
「なにもなかっただとなんだかネガティブすぎるよ。平和な一日だったとか、穏やかな一日だったとかがいいんじゃないかな」
「うん。そうするよ」
 ツヨシは不器用な感じに笑う。
 雨が一粒、二粒、手の甲を濡らす。
「降ってきたね」
 ツヨシは呟く。
「降ってきちゃったね」
 ボクも呟く。
「カズヒト、傘は」
「持ってきてない。ツヨシは」
「ボクも持ってきてない」
「そっか」
「ひどくならないうちに帰ろうか」
「きっと、大丈夫だよ。もうちょっといよう」
「うん」
「うん」
 天気予報、どうだっただろう。天気予報を確認する習慣がない。
 天気のことなんてどうでもいいんだ。
「ねえ、カズヒト」
「なに」
「日記に家族のことを書ける日、来るかな」
 ツヨシはうつむいている。
「どうだろうね」
 ボクはツヨシの横顔に言う。
 ボクには来ないだろう。
「家、帰りたくないな」
 ツヨシは言う。もう口癖だ。
「帰るのやめたら」
 ボクは言う。これも口癖だ。
 でも、ボクらは家に帰る。なぜ帰るんだろう。
 雨粒が少し、増えてきた。このまま雨が降り続ければ、ボクらは帰れない。帰らないで済む。
 この屋上以外、全部水没してしまえばいいのに。
 ボクらは、無力だ。
「ねえ、カズヒト。みんな、楽しそうだよね」
 ツヨシは校庭に目を向けている。運動部連中が汗を流して練習中だ。
「そうだね。まあ、かなり辛いとも思うけど。練習に耐えられなくて退部するやつもけっこういるしさ」
「そうだろうけどさ」
 ツヨシは楽しくないのって聞いちゃいけないんだろうな。
「辛いの、ボクだけじゃないよね」
 ツヨシは校庭から目を逸らして言う。雨で消えそうなぐらいに弱々しい声だ。
 そんなこと言うなよって言いたい。
 視界が雨粒で霞む。
「辛さは比べられないけど、ツヨシだけじゃないさ。他にもいるよ。ツヨシの仲間、いるさ」
「うん」
 ツヨシはボクを見つめて微笑む。
「だから、ツヨシは平気だよ。平気さ」

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