たとえば白い水を飲んだとして

 たとえば白い水を飲んだとする。「牛乳どうぞ」と言われて渡された白い水だ。本当は色がついているだけの水だから、無味無臭の液体。水にうるさい人からすれば硬水だ軟水だあるのかもしれないけれど、味覚音痴なわたしにとっては味がないに等しい。でも、牛乳だと言われ、牛乳だという先入観で口にしたなら、牛乳の味と匂いがすると思う。きっと、人間の感覚なんて、その程度の当てにならないものだ。
 この目に映る、手に触れる、耳から入ってくるものの大半が、白い水と同じなのかもしれない。思い込みが作り上げた幻の世界。まばたきしたならあっという間に別のものに姿を変えてしまうような儚い世界。
 わたしのこの考えが正しいか間違っているかはわからない。この考えだって白い水のようなものなのかもしれない。
 一つ、根拠はないけれど確信を持って言えることは、こんなことを考えているわたしは普通じゃない。わたし以外の普通の女子高生たちは、世界が白い水かピンクの青汁か黄色いリンゴジュースかどうかなんてことを思い悩んで夜を明かしたりしない。わたししかいない横断歩道で、信号機の青が本当は赤かもしれないからと他の人がやってきて渡るのを二十分も待ったりしない。
 普通になりたい。
 すごくすごくすっごく普通になりたい。
 普通の人なんて世の中にいないみたいな言葉をよく目や耳にする。誰だってそれぞれの個性を持っているのだから、誰だってこの星で唯一の存在なのだから、普通なんてないと。
 そんなのは普通を知っているからこその意見だ。普通の定義が明確かどうかはともかく、普通というものは間違いなく存在する。そして、わたしは間違いなく、普通じゃない。
 普通になりたい。
 どうすればなれる。
 ジョギングや腹筋をすればなれるという類のものじゃない。
 普通とはなにか。
 とりあえず、普通の女子高生は誰だって、友達がいる。友達がいない普通の女子高生なんていない。
 だから、半年前、高校に入学したとき、友達作りはわたしの中での最優先事項だった。部活動で青春の汗を流すだとか、試験で好成績をとるだとか、そんなことは普通になるのに必要ない。友達が最高に大事だ。でも、困ったことに、友達の作り方がわからない。中学時代にできなかったものをどうやって高校時代に作ればいいというのだろう。
 そんなわたしに早苗(さなえ)という友達ができたことは、本当に、奇跡以外のなにものでもない。あと百回人生をやり直す権利を与えられたとしても、友達を作る自信なんて微塵もない。一度きりしかない人生で奇跡が起きたわたしは、ある意味、世界最高に幸福だ。
 なのに、せっかくできた友達なのに、今日、あんな質問をしてしまった。
 やってしまった。
「ねえ、早苗って、目、見えてるよね」
 わたしの人生で最初の友達、早苗。
 一緒にいるとすごく楽しい気持ちにしてくれる早苗。
 今日、そんな大事な相手に、普通の女子高生はしないだろう質問をぶつけてしまった。
「えっ、もちろん、見えてるけど」
 そう返事をする早苗の表情は疑問符に満ちていた。「この子はどうしていきなりこんな普通じゃない質問をしてくるんだろう」そんな顔をしていた。
「あは、はは、そうだよね。そうに決まってるよね。はは、うん、そう。そうよね」
 わたしは適当にごまかしたけれど、きっと、ごまかせてなんていない。早苗の中でわたしと普通との距離は大きく離れてしまったはずだ。
 ああ、やってしまった。
 高校入学から半年、せっかくここまで来たのに。
 入学翌日の昼休み、わたしは屋上とトイレのどっちで食事しようか迷っていた。鞄から出したお弁当箱を手に持ち、いっそ食事を抜くのもありかと思った瞬間、早苗が声をかけてきてくれたんだ。
「ねえ、よければ一緒に食べない」
 心臓が止まりそうになった。
「わたし、同じ中学の子いないから、一人なんだ。あっ、もしかして、食べる約束してる相手いるかな」
 わたしは全力で首を横に振った。
「そっか。じゃあ、一緒に食べようよ」
「う、うん」
「あっ、そういえば自己紹介してないね。午後するみたいだけど。わたし、市原。市原早苗。よろしくね」
「た、橘です。橘、楓(かえで)です。よろしくお願いいたします」
「敬語なんてやめてよ。同じ年なんだし」
「はい。ありがとうございます」
「橘さんって、面白いね」
 早苗は笑った。
 その笑顔はわたしがずっと憧れていたものだった。小学生時代、中学生時代、周囲が当たり前のように共有していて、わたしだけが共有できなかった、友達のための笑顔だ。
 早苗は中学時代のこととか、これから始まる高校生活についてとか、色々楽しく喋ってくれた。でも、人とまともに会話した経験のないわたしは、頷くので精一杯。正しいタイミングで頷けているのか、正しいタイミングで笑えているのか、そもそもしっかりと笑えているのか、ご飯を口に入れているときに笑うのは口を閉じているにしても行儀が悪いんじゃないか、同級生と食べているにしてはお弁当を口に運ぶリズムが速いんじゃないか、なにもかもに自信が持てなかった。春休みに毎日何時間も重ねた友達付き合いイメージトレーニングのことなんてすっかり頭から飛んでいた。せっかく話しかけてきてくれたのにやっぱり友達にはしてもらえないんじゃないかという不安ばかりが募っていった。
 でも、早苗は、優しかった。
「わたしばかり喋っちゃったね。ごめんね」
 お弁当を食べ終えたとき、早苗は可愛らしく微笑んで言ってくれた。
 うまく喋ることのできないわたしを責めたりなんてしなかった。
 しかも、帰り、駅まで一緒に行こうと誘ってくれた。
「あの、なんて呼べば、いいですか。市原様で、いいですか」
 横断歩道で信号が変わるのを待っているとき、わたしは尋ねた。
「市原様って、橘さんって、やっぱり面白いわ」
 早苗は大笑いした。
 早苗が笑ってくれたことにわたしはほっとした。
 普通は同級生を様付けで呼ばないことぐらいわかっている。仕事が絡まない限り、誰が相手であっても様付けなんてしない。でも、過去に友達ができたことのないわたしは、自分が世間一般と同じように振る舞っていいかがわからなかったんだ。
 だから、おかしいかもと思いながらも、様付けで呼んだ。これで二人の距離が離れることになるかもしれないと、不安を抱きながら。
 早苗の笑い声がわたしの不安をかき消してくれた。
「早苗って呼んでよ。名字よりも名前がいい。自分の名前、気に入ってるんだ」
「えっ」
「橘さんが呼びづらければ名字でいいけど」
「そ、そんなこと、ない」
「ありがとう。わたしも、楓って呼んでもいいかな」
「名前で、呼んでくれるんですか」
「嫌かな」
 わたしは泣いた。
 早苗はあたふたしていた。自分がなにかいけないことを言ったのだと考えたんだ。わたしは「早苗のせいじゃない」そう言おうとして、でも、嬉しくて涙が止まらなくて、なにもまともに喋れなかった。
 その場面で泣くのが普通じゃないことは知っている。知っていてもどうにもできないことがわたしにはたくさんある。同級生と名前で呼び合う、そんな普通で特別な権利を手にしたことが、最高に幸せだった。
 これで嫌われちゃうと思いながらも、涙は流れ続けた。
 そして、早苗は、そんなわたしのことを嫌わなかった。
 あれから半年かけて、わたしはめちゃくちゃ嬉しいときもトイレでこっそり泣くことができるようになった。早苗の十の言葉に対して一の言葉ぐらいは返せるようになった。タメ口もマスターした。日曜に一緒に図書館で勉強する仲になった。夏休みには二回、映画を見に行った。
 早苗と呼ぶこと、楓と呼ばれることが、自然になった。
 毎日毎日、経験と楽しさを積み重ね、ここまで来た。
 それなのに
「ねえ、早苗って、目、見えてるよね」
 今日、普通じゃない質問をしてしまった。
 早苗の目に映るわたしの顔が気になったんだ。
 たとえば白い水を飲んだとする。それが栄養たっぷりな水だと言われたなら、本当はただの水だとしても、わたしは信じるだろう。元気になれるだろう。
 自分を騙すことは一人じゃできない。騙してくれる人が必要なんだ。
 友達が青空だと呟いたなら、豪雨の中の雷だって太陽に見えるだろう。

 小学生の頃、なにに対しても失敗するのが恐かった。失敗すると、周りにバカにされる。けなされる。いじめられる。当時は自分の行動のすべてが、時には食事や呼吸までもが、周りに否定される要因に思えた。
 だから、失敗しないように心がけた。
 失敗しないためにはどうしたらいいかというと、なにもしなければいい。
 呼吸をしないのはさすがに無理だとしても、できる限り、存在を消す。誰かに自分から話しかけるなんて、絶対にしない。
 あのときのわたしと違い、今のわたしは早苗に話しかけることができる。
 でも、前進したかと自問自答しても、明確な答えは得られない。
 前進している実感は乏しい。
 今日もまた、やってしまった。
「昨日は、変な質問しちゃって、ごめんなさい」
 午後の授業開始直前の廊下、わたしは早苗に謝った。
「変な質問って、なに」
「あの、目が見えているかって聞いたこと」
「ああ、そのことね。別に気にしてないよ」
 早苗は微笑んで言った。手に持った紙パックのイチゴ牛乳を口に近づけ、ストローをくわえ、美味しそうに飲んだ。
 本当に気にしていない様子だった。
 それなのにわたしは、やってしまった。
 そこで話を終わらせておけばよかったのに、続けてしまった。
 続けずにいられなかった。
「でもさ、人の目が本当に見えてるかどうか判断するのって、難しいよね」
 わたしは言ってしまった。
「どういうことだろう」
 早苗は尋ねてきた。
「昔、本で呼んだんだけど、目が見えないとそれ以外の感覚が鋭くなるらしいのね。前にものがあるかどうかとか、見えなくてもなんとなくわかるって」
「そうなんだ」
「うん。だから、たとえばわたしが実は目が見えないって言ったとして、周りはそれが嘘だって決めつけられないよなって」
「けど、一緒に本屋に寄ったときにさ、雑誌の内容について二人で話したりするじゃん。それって、目が見えてないと無理よね」
「事前に調べてあったりとか、推測で答えたりとか」
「まあ、そこまで色々可能性を考えてくと、完全に否定することは無理かもね」
「うん」
「楓って、面白いこと、考えるね」
 早苗は笑った。
 笑ってくれたところでやめておけばよかった。
 まださらに続けてしまった。
「それにさ、人間の五感って、けっこう怪しいでしょう。美味しいと思っていたものが、ちょっとしたきっかけで嫌いになったりとか。トリックアートじゃないけど、本当は立体じゃないものが立体に見えたりとか。わたしはわたしが目が見えてると思ってるけど、実は見えてないのかもって時々、思うんだ」
「ユニークな考えだね」
「家でCDを聴いていて、スピーカーから音が流れているけど、実は違うかもしれないなって思うことがあるの。音はスピーカーから流れてくるものって決めつけてるだけで、本当は全然違うところから出てるのかもしれない。そもそも、音楽なんて流れてないのかも。聴いてる気になってるだけなのかも。再生ボタンを押した時点で曲が流れ始めるって思い込んでるから、流れていない音楽が耳から入ってきてるつもりになっているだけなんじゃないかって」
「なんか、難しいな」
 そこでチャイムが鳴った。
「教室、戻らなきゃ」
 早苗が言い、わたしたちはそれぞれの席についた。
 次の数学の授業中、わたしはずっと、後悔していた。
 あれからずっと、家についてから今までの五時間以上、後悔し続けている。
 早苗は絶対、わたしをおかしいと思った。チャイムに助けられたって思った。
 スピーカーから流れる音の真偽なんて、普通の女子高生の会話のテーマじゃない。駅前に新しくできたカフェについてとか、週末の音楽番組のミュージシャンについてとか、そういうのが本来の話題だ。
 やってしまった。
 わたしの悩みに巻き込んでしまった。
 巻き込まれてほしかったんだ。
 友達として巻き込まないといけないと思ったのは、わたしの勝手なのかな、やっぱり。
 一人で抱えきれない荷物じゃなくても、二人で抱えたくなってしまう。抱えるべきだと思ってしまう。

 昔、自分が嫌いだった。今にして振り返ると、自分が嫌い、だったのではなくて、他人に嫌われる自分が嫌い、だったのだけれど、当時のわたしにとってはどちらも同じようなものだった。
 自分を変えるために、色々なことを試みた。周囲からすれば無意味だろう行動に真剣な気持ちで取り組んだ。
 たとえば、シャワーをできるだけ長く浴びるようにした。水をたくさん浴びれば、水のように無害な存在になれるかもしれないって考えたんだ。根拠なんてない。わたしはゼロに等しい可能性にすがっていた。他にすがるものがなかった。
 辛い気持ちが泡のように弾けてほしいから、泡にまみれたこともある。海外ドラマを見て思いついたんだった。ドラマの主人公が信じられないほどにポジティブなのは泡の力なんじゃないかと思ったときには、ノーベル賞ものの発見をしたかのように感じられた。
 綺麗な青空を見て、こんな澄んだ存在になりたいと願った。この地上だって空と繋がっているのだから、わたしが呼吸するためのこの酸素だって空の一部なのだから、願えばなれる気がした。
 多くの経験を繰り返し、わたしは今、ここにいる。
 今も自分を好きだと断言はできない。
 でも、自分を嫌いだと断言することもできない。
「ねえ、最近なんか様子が変な気がするけど、なにかあったかな」
 今日、昼休みの教室、二人でお弁当を食べているとき、早苗は言ってくれた。
 別になにもないと答えようかと思った。
 嘘をついたらいけないとも思った。
 わたしはいったん早苗から視線を逸らした。
 目を閉じて、開いて、再び早苗を見つめた。
「多分、信じられない話だと思うけど、聞いてくれるかな」
 わたしは言った。
 早苗は迷いのない笑顔で頷いてくれた。
 わたしは自分の抱える悩みについて語った。
 それが正しかったのか、間違っていたのか、正しくなかったのか、間違っていなかったのか。
 判断できない。
 普通じゃないわたしは、普通の判断基準を持っていない。いくら頭を働かせても答えの周りをぐるぐると回るだけだ。
 こんなわたしの悩みは保育園の頃まで溯る。
 あの頃、わたしはいじめられていた。小学校に上がってからも、いじめられた。中学生になってからもいじめられた。理由は単純、わたしの顔が不細工だからだ。周りが不快になるほど、周りがからかいたくなるほど、顔が悪いからだ。
 わたしはいじめられ続けた。友達ができたことなんてない。給食にはチョークの粉や唾をかけられ、美術の時間に描いた自画像に落書きされ、顔を雑巾で拭かれ、ただ辛いだけの日々だった。
 小説やマンガを読むと、普通はいじめっ子を憎むものらしい。でも、わたしは、周囲を憎む気持ちにはならなかった。誰もがわたしをいじめるから、悪いのは自分自身と考えた。だって、クラスに四十名いて、三十九名がわたしを嫌ったなら、それはきっとその三十九名にとっては避けようのないことだったんだ。
 悪いのはわたし。悪いのはわたしの顔。
 わたしだって自分の顔は好きじゃない。嫌いだ。
 自分に嫌われるのは、他人に嫌われるよりも辛かったりする。自分と一番長く一緒にいるのは、自分なんだ。
 わたしはあることを願った。
 顔が美しくなってほしいなんておとぎ話のようなことは望まない。周りにちやほやされる自分になりたいという贅沢も望まない。だから、せめて、わたしだけはわたしを好きでいられるようになりたい。この不細工なわたしの顔がわたしにだけは美しく見えるようになってほしい。幻でいいから、嘘でいいから、自分だけは自分を愛したい。
 毎日毎日願い続けた。
 綺麗になった自分をイメージし続けた。
 そしてある日、中学二年の秋、信じられないことが起きた。切なる願いが強烈な自己暗示へと結びついたのか、写真の上でも、鏡の中でも、わたしは美しくなった。理想の自分がそこにいた。テレビに映る芸能人たちより、雑誌上のモデルたちより、わたしの容姿の方が優れている。
 周りの態度は以前と変わらない。他の人の目に映るわたしは醜いわたしのままなのだろう。でも、わたしはわたしの顔から視線を背けないで生きていける。それだけで充分だった。充分だと思えた。
 わたしはわたしの顔を見なくて済むようになった。
 わたしはわたしの顔を見ることができなくなった。
 周りに見えるわたしを、わたしは知らない。
「今はね、またね、自分の本当の顔が見たいんだ」
 過去について話した後、わたしは早苗に言った。
「そっか」
 早苗は呟いた。呟くだけで、それ以上、このことについての言葉は出てこなかった。明らかに、戸惑っていた。帰り道も、言葉少なで、硬い表情をしていた。当たり前だ。こんな話をされたって、反応の示しようがない。
 わたしは今、再び、自分の顔を望んでいる。あれだけ嫌っていた顔を見たいと願っている。
 自分の顔を見なくて済むようになり、わたしは楽になった。けれど、楽しくはなれなかった。
 自分がわからないと、他人との距離が測れない。顔がわからないだけで、他のすべてもわからない気持ちになっていく。
 今、わたしは、自分に嫌われるよりも、早苗に嫌われたくない。
 早苗の瞳に映る自分を、しっかりと知りたい。
 たかが顔のことなのに、胸が痛いんだ。
 本人すら憎んだ顔なのに、早苗はちゃんと、向き合ってくれているんだよね。
 早苗が友達にしてくれたわたしを、わたしは否定しているんだよね。

 人生の終わりに会いたい相手は人生の最初に仲良くなった相手らしい。いつか誰かが言っていた。先生が授業中に言ったのだろうか。それとも、詩集かなにかで読んだのだろうか。思い出せない。思い出せなくても構わない。どこで知ったのかはともかく、その言葉を知ったとき、すごく悲しくなったんだ。誰とも仲良くなれなかったなら、誰とも会いたくないまま死んでいくのだなと。わたしはその言葉を忘れようとした。
 今は受け止められる。
 出会った順番なんて関係ないと、否定することだってできる。
 今朝、学校に行くのが恐かった。早苗に会うのが恐かった。途中で引き返そうと何度も思った。でも、引き返してしまうと、二度と戻れない気がした。
 暗かった過去、わたしが苦しみに耐えられたのは、いつか友達ができるという希望があったからだ。もしももう一度、あの過去と同じ状況に戻ったなら、友達を失ったわたしは、友達とやっていくのは無理だと知ったわたしは、もう苦しみには耐えられないだろう。
 駅の改札に着き、わたしを待つ早苗を見つけたとき、反射的に目を閉じた。
 会いたくなさそうな表情をしていたらと怯えたんだ。
 恐る恐る目を開けたとき、早苗はいつも通りの笑顔をわたしに向けていた。ほんの少しだけ、安心した。
 互いに挨拶をして、学校へと歩き始めた。
 歩きながら、早苗は話した。
「ねえ、楓。楓はさ、いじめが原因で自分の顔が見えなくなったんでしょう。そこには理由があるよね。じゃあさ、どうしてまた見たくなったのかな。その理由がわかれば、また、見えるようになるんじゃないかな」
 早苗はわたしの普通じゃない悩みについてちゃんと考えてくれたんだ。悩みを共有してくれたんだ。
 普通じゃないわたしを、普通のまま、受け入れてくれた。
「ありがとう、早苗」
 わたしは頬を伝う涙をハンカチで拭った。
「ちょっと、なんで泣くのよ。いけないこと言ったかな」
 早苗は慌てた。出会ったときからずっと、早苗は優しい。
「ごめん。嬉しかったの。早苗がわたしのこと、考えてくれたのが」
「友達なんだから当然じゃないの。泣くようなことじゃないよ。笑顔見せて、笑顔。こんなの普通だって」
 早苗の口から出た友達、当然、普通、そんな一つ一つの単語が、穏やかに胸に染みた。
「見たくなった理由はね」
「うん」
「早苗が見てるわたしを、わたしも見たくなったから、かな」
「なんで」
「自分を好きになったってこと、かな」
「ややこしいけど、いいことだよね」
「うん、いいことだよ。すごく、いいこと」
「よかった」
「ありがとう」
 わたしはハンカチをスカートのポケットに入れ、ゆっくりと呼吸した。
 中学生の頃、一時期、速めに呼吸していた。速く呼吸すると嫌なことが短時間で過ぎ去る気がしたから。もちろん、時間の流れが速くなることなんてなく、ただ疲れるだけだった。逆に時間の流れがゆるやかになってしまった気さえした。
 早苗といると、時間の流れが速い。すてきな時間、楽しい時間はあっという間に終わるということを、初めて知った。早苗が教えてくれた。
 焦ることなくゆっくり呼吸して、二人の時間を大切に過ごそう。
「けどさ、楓」
「なに」
「わたし、思ったんだけどさ」
「うん」
「楓が本当の顔を見られるようになったとしても、それを確認するの、無理だよね」
「そうだね。無理だよ」
「じゃあ、どうやって見えたかどうかわかるの」
「別にわからなくてもいいんじゃないかな」
「なによそれ」
「なんか、どうでもよくなってきちゃったわ」

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