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        <title>青春B■小説と言葉素材‐泪の止まる野菜‐</title>
        <link>http://www.aoharu-b.com/nty/</link>
        <description>青春Bによる小説と言葉を紡ぐ場所</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Sat, 26 Jul 2008 12:21:02 +0900</lastBuildDate>
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            <title>トカゲの足</title>
            <description><![CDATA[<p>　幼い頃、一冊の童話と巡り会った。ヨーロッパ生まれの童話で、保育園の本棚に置かれていた。ボクは何回も何十回も繰り返し読んだ。飽きることなく、ページを捲る度、胸が高鳴った。<br />
　その童話に特定の主人公はいない。一つの前提の元、世界中の様々な人が登場する。前提とは「人は生涯に少なくとも一度、必ず、強く願うことが叶っている」というものだ。家族で農場を営みながら暮らす女性は「夫に美味しくご飯を食べてもらいたい」そんな願いが毎日叶っている。学校帰りに強い陽射しを浴びた少年は「喉を潤したい」そう願い、汗をかきながらたどり着いた家で井戸水をたらふく飲む。とある老婆は「孫にありがとうを言ってもらいたい」パイを振る舞うことでその願いを実現する。どれもが身近で有り触れた願いかもしれない。でも、身近であろうが有り触れていようが、紛れもなく強い願いだ。童話の作者は、日々がどれだけ幸せに満ち溢れているかを伝えたかったのだろう。思い通りにならないことばかりがやたらと目につく人生、実は自分のすぐ傍で、多くが思い通りになっている。<br />
　でも、ボクがその童話の熱心な読者になったのは、傍ではなくて彼方を見つめたからだ。<br />
　ボクは「人は生涯に少なくとも一度、必ず、強く願うことが叶っている」この説を信じた。根拠なんてない。理屈じゃない。幼い頃に受けた影響は、筋の通った論理でかき消せない力を持つ。そんな非科学的なことはありえないと考えながらも、さらに信じるための理由を無意識に無理に作ったりする。<br />
　友達の一人は運動会の中止を願い、本当に雨が降った。<br />
　友達の一人は誕生日にラジコンが欲しいからその願いを何度も何度も父親に告げて、実現させた。<br />
　友達の一人は宝くじの当選を願い、三百円を手に入れた。<br />
　実例はいくらでも存在する。<br />
　童話に出てくる説が本当か嘘かを明らかにすることはできない。つまり、本当である可能性を、完全には否定できない。<br />
　ボクはなにかを強く願うことをなるべく避けるようにして過ごした。<br />
　だって、もしも生涯に一度だけのチャンスなら、くだらない願いのためには使いたくない。<br />
　欲しいものができたときも、順調にいかないことと遭遇して苛々したときも、衝動を殺すように努めた。<br />
　願いから目を逸らすことは、当時のボクにとって一種の癖になっていた。食事のときにいただきますを言うのと同じようなもので、重荷ではなくて面倒臭くもなくて、ただの習慣だ。<br />
　中学校に入りバスケットボールを始めたときも、願いをできるだけ遠ざけた。レギュラーになりたいのは願いじゃなくて目標だと自分に言い聞かせる。ドリブルがうまくなりたいのも、フリースローの成功率を上げたいのも、目標だ。周りより低い身長が伸びてほしいという気持ちも「父さんも母さんも背が高いから願わなくても伸びるさ」そう考えてごまかし続けた。<br />
　目標だけを見つめて真っ直ぐに努力した。その結果、ボクは実力をつけ、中学二年の終わり頃には県内でそれなりに名の通った存在になっていた。<br />
　自分よりずっと大きな選手の向こうにあるゴールへと華麗にジャンプシュートを決める。その度、身長を望んでいた自分を忘れ、優越感に浸る。<br />
　そんなある日、夕飯後にリビングでテレビを見ていた。<br />
　元ピアニストのイギリス女性のドキュメンタリーが放映されていた。<br />
　彼女は幼少期より様々なコンクールを総なめにし、天才ピアニストとして注目を集めていた。イギリス国内では歴史上の音楽家の誰よりも有名なほどだったらしい。しかし、十五歳の夏、交通事故に遭い、両腕の神経が切断され、すべての指が動かなくなってしまう。世間は天才少女を襲った悲劇に涙した。そして、本人は世間の落胆以上に苦しんだ。生きる価値を見失ってしまいそうになるぐらいに。ラジオからなんらかの音楽が流れてくる度、辛くて耳を塞いだ。いっそ耳を燃やしてしまおうとまで考えた。けれど、両親や友人たちの愛情の力を借り、立ち直っていく。ピアノが好きだという気持ちと向き合い、指導者として音楽界に帰ってきた。自分はもう弾けない。それでも、ピアノの素晴らしさを伝えたい。彼女はその後、名指導者として、何人もの一流ピアニストを輩出した。<br />
　その番組が伝えたかったのは、困難から逃げない大切さや、苦境の先にこそ光があるということだったのだろう。<br />
　ボクは、指導者としての彼女の輝きには気づけなかった。事故に遭った際の苦しみの描写だけが心に残った。<br />
「もしもバスケットボールができなくなったなら、ボクはどうなるのか。彼女は指が動かなくなっても、ピアノが弾けなくなっても、立ち直ることができた。ボクは立ち直ることなんて絶対にできない」<br />
　ボクは、恐くなった。バスケットボールができなくなったなら、自分の価値が消える。そうとしか思えなかった。<br />
　手がなくなることよりも目が見えなくなることよりも、なによりも足がなくなることに怯えた。ジャンプ力がボクにとっての最大の武器だったからだろう。いつの日か世界の誰よりも高く跳べるようになるとすら思っていた。<br />
「足を失ったボクは、大切なネジを失ったロボットのように、脆く崩れるだろう」<br />
　恐怖について人に話したことはない。表面にも多分、出ていなかったと思う。内面だけに留めておける程度の恐怖だった。ただ、常に心のどこかに引っかかり、ときに夜をひどく不安なものにした。朝、目覚めたとき、意思を持った足がどこかへ消えてしまっているかもしれない。<br />
　ボクはある日、強く願うようになった。消えても新しく生え変わる能力を足が得ることを。そう、トカゲの尻尾のように。足はもしも動けなくなったなら、自らを上半身から切り離し、次を誕生させる。そうなればボクは、いつまでも高く跳べる。<br />
　気持ちをごまかすことなく、願い続けた。<br />
　中学三年の春、学校から帰る途中の道、ボクはやっぱり願っていた。短パンから出ているこの両足がトカゲの尻尾のようになったなら最高に素晴らしいと。<br />
　車が通ることのほとんどない住宅街、ボクは注意力を欠いていた。足を失うことに怯えているくせに、無防備だった。<br />
　角を曲がるとき、ボクを眩いライトが覆った。その明かりの向こうに、ボクのすぐ正面に、車が来ていた。<br />
　次の瞬間、ボクは倒れていた。暗くなった夜の空を仰いでいた。<br />
　地面に打ちつけられたのか、右腕を痛みが貫く。<br />
　車が走り去っていく音が聞こえる。<br />
　手をついてゆっくりと上体を起こし、そして、目に映った物体に呼吸を奪われた。<br />
　そのとき、どんな感情に陥ったかは説明できない。激しく混乱していた。<br />
　胸がとてつもなく痛んだのは覚えている。身体的な痛みではなく、精神的な痛みだ。腕の痛みなんてどこかへ消えた。<br />
　目の前には、足が転がっていた。太もも、膝、ふくらはぎ、足首から靴まで、まるまる一本、横たわっていた。それは間違いなく、ボクの右足だった。何百回も何千回も愛しくマッサージしてきた自分の右足だ。<br />
　さらに胸が苦しくなった。<br />
　ボクは状況を把握することのできないまま、自分の下半身に視線を向けた。<br />
　左足も右足も、しっかり残っていた。透明で粘り気のある液体に覆われた右足が、ボクの身体にちゃんと繋がっている。<br />
　右足にそっと触れた。固まりかけのゼリーみたいな液体の感触と生温い肌の感触が指を伝う。つねってみる。ちゃんと痛い。<br />
　震えながらも、両足で立ち上がることができる。<br />
　車に撥ねられた、それは確かだ。転がっているのが自分の右足であることも確かだ。右足がボクの下半身に残っていることも確かだ。<br />
　願いが叶ったんだ。<br />
　ボクの足は、不死身になったんだ。<br />
　そこでやっと、感情は混乱から抜け出し、はっきりした形を取り戻した。嬉しいという感情が、ボクの内面を埋め尽くした。<br />
　転がった右足に手を伸ばした。拾おうとして触れた。右足は触れられると同時になくなった。蒸発とか風化とか、そんな感じだ。役目を失ったから消えたのだろうとボクは判断した。これからはこの生まれ変わった右足が、新たなボクの相棒だ。<br />
　ボクは一歩一歩を大切に踏みしめながら、家へと帰った。<br />
　部屋に戻り、ベッドに腰掛け、優しく右足を撫でた。そのとき、嬉しさに疑問が入り込んできた。<br />
「生まれ変わったこの足は、ボクの身体と繋がっている。でも、本当に、ボクの足なのか」<br />
　非現実的な状況下に置かれていることに、やっと気づいた。<br />
「こいつは、ボクが眠っている間にどっかに行っちゃうんじゃないか。ジャンプすると同時に、足から落ちるんじゃないか」<br />
　疑問はすぐに恐怖へと変わった。<br />
　ボクの右足を、もう、ボクの右足として思えなくなっていた。<br />
　そして、非現実的な状況に押し潰されたボクは、バスケットボールをやめた。<br />
　今にして考えれば、燃え尽きるまでやるべきだった。本来なら轢き逃げに遭った時点で失っていた選手生命なんだ。たとえ足がジャンプシュート中に地面に置き去りになってしまうとしても、実際にそうなるまでダメ元で挑戦すればよかったんだ。でも、当時のボクは弱くて、それができなかった。やめることを引き止めてくれる周囲を拒絶し、バッシュを処分した。<br />
　本当は、バスケットボールが、したかったんだ。<br />
　バスケットボールをやめて、人に注目されることも脚光を浴びることもなく、平凡に時を重ねてきた。最初はその平凡さや地味さが情けなくて、歯痒くて、頻繁に涙が出た。けれど、あれから十年が経った今、平凡で地味な毎日を否定する気持ちにはならない。家族がいて、友達がいて、仕事があって、日々に不満はない。<br />
　不満がなくても、やっぱり、後悔することはある。<br />
　仕事がうまくいかなくて苦しいとき、テレビ画面に偶然バスケットボールの試合が映り、嘔吐する。バスケットボールをしたいと思いながらも、その気持ちに嘘をついた時期を、激しく悔いる。<br />
「あのとき全力を尽くしていれば、もっと楽に生きているのかな」<br />
　童話にしてもドキュメンタリーにしても、様々なことについて、ボクはいつでも、大事な部分を受け止め損なってきた。<br />
　もっと身近な幸せを願っていればよかった。<br />
　今後、身近な幸せを願い続けていれば、心の底から笑えるようになるのかな。<br />
　身近な幸せを願い続けていれば、燃え尽きることができるのかな。</p>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/07/post-28.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">トカゲの足</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 26 Jul 2008 12:21:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>二十二世紀</title>
            <description><![CDATA[<p>　二十一世紀が訪れたときのことは、今でもかなり記憶に残っている。<br />
　当時のボクは十九歳で、哲学科に通う大学一年生だった。ナルシシズムやサディズムやマゾヒズム、相対性原理、さらには東西線のダイヤや県庁所在地について、少しでも興味が湧いた事柄に対しては積極的に知識を深め、友人たちと議論を重ねた。そんな時間はとても充実していて、また、そんな自分は人と比べて優秀だと勘違いしていた。女性と夜通し遊んだり、スポーツサークルで友達を作ったり、ブランド品の買い漁り目的で海外旅行したりといった他人の過ごし方を見下していた。周りからすればけっこう痛い人間だったかもしれない。今になって振り返れば、申し訳ないぐらいに視野が狭かった。視野が広ければ得られたものがある。視野が広ければ失わなかったものもある。でも、視野が狭いからこそ得られたものがあることも確かだ。視野の狭いボクと一緒にいることを望む少数の友人たちがいた。掛け替えのない財産だ。彼らの存在を思うだけで、自分の幸せを疑わなくて済む。<br />
　二十一世紀が訪れたとき、ボクや友人たちはひどくがっかりした。目に映る景色、耳に入ってくる世間の話題、そのどれをとってもボクらが子どもの頃とさほど違いがない。ＳＦ小説や漫画の中で描かれた二十一世紀は、実際に二十一世紀を迎えたとき、遠い創作のままだった。車には依然として四つのタイヤがあり、世間を賑わす人型ロボットはいびつな動きを見せる。<br />
　自分たちの目の前にある世界は事実で、しかし、真実として受け止めることはなかなかできなかった。<br />
　本当の意味での知識や思考力があればそこまでがっかりすることはなかったのだろう。普通に考えれば、創作通りにならないことぐらい、子どもでもわかる。<br />
　いや、ボクらだって、創作上の二十一世紀が訪れると心の底から信じてはいなかった。二十一世紀という言葉の響きに酔っていたんだ。二十世紀から二十一世紀への境目をビッグイベントとしてとらえていた。<br />
　しばらく経ち、大学二年生になる直前には、ボクらの興味は次の世紀へと移っていた。<br />
　二十一世紀の始まりは平凡だった。ならば、二十二世紀の始まりはどうだろう。二十二世紀こそは夢のような世界が待っているんじゃないか。自然界における大抵の謎を科学が解き明かした未来だ。そこはきっと、創作の世界を超える驚きに埋め尽くされている。二千一年に暮らす人間の空想がなにもかも現実へと変わっている。<br />
　ボクらは百年後に訪れる二十二世紀について、教室で、飲み屋で、夜の公園で語り合った。<br />
　そんなある日、友人の一人が言った。<br />
「オレたちって、二十二世紀は迎えられないんだよな」<br />
　ボクは激しく動揺した。<br />
　彼の発言に動揺する要素は微塵もないはずだ。二十二世紀が訪れるとき、ボクらは百十九歳になっている。そこまで生きられる者なんて、世界のどこにもいないかもしれない。<br />
　この心と身体が二十二世紀に到達する可能性は、限りなくゼロに近い。<br />
「そんなことわからないだろう。医学だって進歩してるだろうしさ」<br />
　ボクは言った。<br />
　自分に言い聞かせるように口にした。<br />
　ボクらが想像する二十二世紀は希望に満ち溢れている。今のボクらの想像を鼻で笑い飛ばすような新しき常識だらけの世界のはずだ。でも、それでもなぜだか、人の命が有限であることは変わりないだろうと思っていた。<br />
　ボクらは必ず死ぬ。二十二世紀を迎えることなく、いなくなる。二十三世紀も二十四世紀もこの目で見ることはできない。そんな当然のことにボクは初めて気づいた。もちろんそれまでも人が死ぬということを知ってはいた。テレビを点ければ悲しいニュースばかりで、親戚の葬儀に参列したこともあるし、死生論について語っている本はいくらでも存在する。知っているだけだった。恥ずかしい話だが向かい合ったことはなかった。<br />
　同じ年齢で同じ立場の仲が良い友人の口から語られた死は、それまでの死についての情報とは違い、実感を突きつけてきた。<br />
　ボクらが楽しく議論している二十二世紀に自分がいない、その事実は、当時のボクには重すぎた。<br />
　ボクの経験するすべては、ボクの想像するすべては、ボクの死と同時に容易に消える。生物の中で人間だけが特別なんてことはありえない。<br />
　どれだけあがいても知ることのできない未来がある。<br />
　一度向かい合ってしまった以上、無視して生きてはいけない。ボクは不器用な人間だ。死についてひたすらに考えた。友人たちと話す時間を削り、なくし、死の受け入れ方を悩み続けた。悩んだ時間の分だけ答えに近づくわけではない。時間に比例して答えから遠ざかっていく。一人暮らしのアパートで、ただ死という単語に追い回されて過ごした。眠るとそのまま死んでしまいそうで、不眠に陥る。やがて学校にまったく行けなくなり、実家に連れ戻された。<br />
「あんたバカじゃないの」<br />
　温厚な母親が泣いて叫んだ。<br />
　ボクも泣いた。自分がバカだということはわかる。どうすればバカじゃなくなれるのかがわからない。どうしてバカになったのかがわからない。<br />
　同じ集団のボク以外の者たちはしっかり大学に通い続けていた。ボクだけが落ちこぼれた。劣等感が天井知らずに積み重なっていく。<br />
　誰と話しても心が軽くなりはしない。「後世に多くを残すことが今を生きる者の義務」「いつか死ぬからこそ全力で生きないといけない」「自分が苦しんでいるとき、身近な人たちはそのことでもっと苦しんでいる」どんな正論もボクの心には届かなかった。<br />
　家から出られない。トイレに行くために部屋から出ることすら困難だ。<br />
　泣いていない時間より泣いている時間の方が長かった。<br />
　ある日、外の空気に触れれば少しは気持ちが楽になるかもしれないと、母親がボクの部屋の窓を開けた。真っ青な空から、静かな風が吹いてきた。しかし、ボクの気持ちは楽になりはしない。母親の優しさに応えられない状況が、また絶望を抱かせる。<br />
　二十二世紀どころか、二秒後には自分が消えていそうで、震えた。どうせ死ぬなら今死んでも同じと思いながら、やはり死は恐い。<br />
　辛い時期だった。<br />
　あれからもう、約百年が経ったんだ。<br />
　今日、二千百一年一月一日、二十二世紀が訪れた。本当にあっけなくやってきた。<br />
　到達できないと決めつけていた時代に、百十九歳のボクはいる。<br />
　ボクらが強く待ち望んだ二十二世紀だ。<br />
　百年前の想像と比べて、どうだろう。<br />
　国の数は分裂によって増え、合併によって減り、今では百六十九になった。パソコン、冷蔵庫、ポットといった電気製品の区分がなくなった。もはや電気製品という言葉そのものが死語だ。バスで海外に行けるようになり、でも、都道府県を越えるためにも手続きが求められる。地震が起きても家は揺れない。百年前に温暖化の原因とされていた大半がただのこじつけでしかないと判明した。日本では高校までが義務教育となり、大学が六年制を基本とするようになり、政治は二院制から三院制になった。子どもを産むのは自由でも、子どもを育てるためには免許が必要だ。日本史の授業の近代分野では有名な文学作家と同じぐらい、有名な漫画家が紹介される。安全が増え、けれど、危険が減ったかというとそうでもない。<br />
　国外も国内も、多くが変わった。でも、月への旅行は今でも一般庶民には手が届かないぐらいに高額で、本という紙媒体は残り愛され、傘を差しても服は濡れるし、大事なことは会って伝えるべきとされ、ひ孫たちに聞くと絵の具の金色はやっぱり特別なものみたいだ。<br />
　百年前の想像とはかなり違う。でも、がっかりなんてしていない。<br />
　ボク自身はどう変わっただろう。<br />
　老人になったなら自分をワシと呼ぶと思っていた。けれど、実際にはワシなんて言葉は使わない。人前ではわたしと呼び、頭の中では未だにボクを使っている。<br />
　身体の衰えはさすがにものすごい。もう歩くことすらできない。でも、二十代の頃の苦しみが嘘のように、穏やかに暮らしている。あれだけ情けなかった自分を棚に上げ、年下の者たちに偉そうなことを言ったりするときもある。そんなときは少し自己嫌悪が起こりながらも、これが老人の役目なのだとある程度は割り切れる。<br />
　あの頃は本当に苦しかった。普通の生活へと抜け出すまでに十年近くかかった。十年近くかかったけれど、抜け出せた。優しさの力だ。なにもかもを投げ出したボクを、母親や友人たちは投げ出さなかった。<br />
　当時のボクに教えてあげたい。苦しむ必要なんてないんだと、君は一人じゃないんだと、優しく伝えてあげたい。<br />
　伝えることはできない。二十二世紀を迎えた今も、タイムマシンはまだ完成していない。タイムマシンが不可能だということがはっきりしてしまった。<br />
　たとえ昔に戻れるとしても、ボクはボクになにも言わないだろう。<br />
　苦しんだからこそ、今のボクがいる。<br />
　苦しみから多くを学んだボクがいる。<br />
　妻とも結ばれた。<br />
　今のボクに昔のボクの気持ちはわからない。こうして振り返っている苦しみと実際の苦しみとの間には大きな隔たりがあるはずだ。伝えたい言葉を伝えたところで、他人の言葉にしかならない。<br />
　今のボクを昔のボクに見せてあげたいというこの気持ちは大切にとっておこう。昔のボクを思うことは、今の時代の若者たちを思うことだ。だからこうして、筆をとることにした。今の気持ちを残すことにした。他人の言葉にしかならないことはわかっている。<br />
　他人の言葉として拒んでいた周囲の優しさが、ボクを立ち直らせてくれた。<br />
　当時、二十二世紀を迎えることはできないと決めつけていた。でも、健康に恵まれ、愛に恵まれ、この歳まで生きることができた。<br />
　二十三世紀を迎えることはさすがに無理だろう。けれど、もしかしたら、できるかもしれない。未来のことなんて誰にもわからない。<br />
　未来を見つめるのが恐くなったなら、少し振り返ってみればいい。<br />
　振り返ることの重要さが、今のボクにはわかる。</p>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/07/post-27.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">二十二世紀</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 16 Jul 2008 21:11:22 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>過去を今に</title>
            <description><![CDATA[<p>　２００３年６月２８日１０時４７分５９秒</p>

<p>　７時半ぐらいに目が覚めた。せっかくの土曜だからもっと眠りたいと思って、でも、二度寝できなかった。なんか眠れなかった。眠れないからなにかしようと思って、けど、起き上がることもできなかった。どっちつかず。ふとんの中でしばらくぼうっとしていた。今日見た夢のことを考えた。老人ホームの夢だ。老人ホーム内では老人たちに様々な特権が与えられている。建物の外では１０００円の雑誌が１００円で売られている。ずる賢い老人たちはそのことを利用してお金儲けしていた。<br />
　わたしは将来どんなおばあさんになるのだろうって想像した。おばあさんになるまで生きられる保障なんてどこにもないし、それに、なれたとしても寂しく過ごしているだろう。<br />
　あおむけのまま目の前で両手を握って、みっつ数えてから開いた。からっぽだった手を開くとき、そこになにかあることを期待した。あるわけない。あるわけがないと最初からわかっていて、それなのに期待もして、わたしはバカだ。<br />
　無謀な期待をするのは悲しいことなのか、それとも、夢があるってことなのか。よくわからない。昔のわたしになら、わかったのかな。<br />
　９時頃、やっと起きた。<br />
　１階のトイレに行って、部屋に戻って、またふとんに寝転がった。<br />
　世間のわたし以外の１９歳女子大生は休みになにをしているんだろうって考えた。涙が出そうになった。少し出た。<br />
　外が雨だということに初めて気づいた。シャーペンの芯みたいに細い雨だ。出かけたくないって思った。どうせ出かけるつもりなんてないことに気づいた。明日の日曜は雨でもいいから学校に行く月曜は晴れてほしいと願う。<br />
　寝転がったままで雨をぼうっと眺めていた。雨がなくなれば人類は滅亡するんだなって考えた。スルメのように干からびる。人間はやっぱり自然には勝てない。機械にも勝てない。過去にも勝てない。人間が勝てるものってなんだろう。<br />
　生きているイカにスルメを見せたならどんな気持ちになるのだろうと考えた。また涙がこぼれた。<br />
　１０時２０分ぐらい、今日二度目のトイレに行きたくなった。部屋から出た。<br />
　トイレに行って戻るとき、若菜お姉ちゃんの部屋のドアが開いていた。通り過ぎればいいのに、中を覗いてしまった。わたしはやっぱりバカだ。<br />
　散らかった部屋の中、くすんだパジャマ姿で机に向かって写真を見つめていた。泣いていた。どうせ山吹さんの写真だろう。<br />
　本当に不幸な女性だ。<br />
　若菜お姉ちゃんは部屋にこもってばかりいる。若菜お姉ちゃんの姿を見たの、いつ以来だろう。３ヵ月振りぐらいかな。３ヵ月前も泣いていた。起きているときも寝ているときも２４時間泣いているのかもしれない。<br />
　若菜お姉ちゃんを見ると、わたしを見ている気持ちにさせられる。<br />
　わたしは部屋に戻って日記を書き始めた。そして今だ。<br />
　こんな早い時間から日記を書いている人って、わたしの他にいないかもな。<br />
　若菜お姉ちゃんみたいには絶対になりたくないんだ。<br />
　幼稚園に通っていた頃、恐い映画を見た夜、お母さんの手を握って眠った。「このまま１００年手を握っていればお母さんと一人の人間になれるかな」みたいなことを考えた。でも、次の日の朝、お母さんは先に起きて朝食の支度をしている。わたしの手はふとんを強く握っている。ずっと手をつないでいるなんて不可能なんだ。誰かと一人になんてなれない。誰だって一人で生まれて一人で死んでいく。ありがちな表現だけど、真実だ。今日いる人が明日もいるなんてルールは世界のどこにもない。<br />
　昔、山吹さんといるとき、若菜お姉ちゃんはとても幸せそうだった。わたしといるときよりずっと幸せそうで、少し、悔しかった。<br />
　山吹さんはかっこよくて優しくて、そんなすてきな彼氏がいる若菜お姉ちゃんが羨ましかった。嫉妬もした。<br />
　わたしは若菜お姉ちゃんにそっくりだって言われて育った。確かにわたしと若菜お姉ちゃんの同じ年齢のときの写真を比べると、かなり似ている。わたしは若菜お姉ちゃんより８歳下で、だから、８年後にわたしが２５歳になったとき同じように最高の恋人ができるって信じていた。２５歳まではけっこう遠いけど、待ってもいいって思えるぐらい、理想のカップルだった。<br />
　今のわたしと今の若菜お姉ちゃんを比べることはできない。<br />
　山吹さんは毎週末やってきた。若菜お姉ちゃんと出かけたり、そのままお茶を飲んでいったり。両親公認の二人で、将来は結婚するものだと思っていた。<br />
　わたしは嫉妬しながらも、早く結婚してもっと幸せになってほしいとも願っていた。そうすればかっこよくて優しい山吹さんがわたしのお兄ちゃんになる。それになにより、若菜お姉ちゃんの最高の笑顔が見たい。<br />
　ある日、山吹さんは家に来なくなった。どうしてか理由は知らない。若菜お姉ちゃんは捨てられたのかな。山吹さんが生きているのか死んでいるのかもわからない。理由を話してくれない。わたしも聞こうとしない。理由なんてどうでもいいんだ。若菜お姉ちゃんが不幸になった、その事実だけが重要だ。<br />
　わたしは若菜お姉ちゃんに似ている。若菜お姉ちゃんみたいにはなりたくない。<br />
　山吹さんがいなくなって、悲しみに打ちのめされ、ずっと内にこもるようになった。お父さんとお母さんが叱って外に出せばいい。あまりにかわいそうで誰もなにも言えない。若菜お姉ちゃんはもう２年間も家から出ていない。部屋にいたって悲しみはどこにも行かないのに。外の世界には出会いがあるかもしれない。家の中にいても誰とも出会えない。この先、死ぬまで外を拒むつもりなのかな。<br />
　若菜お姉ちゃんの頭の中は幸せだった頃の思い出だらけなんだろうな。<br />
　当時、山吹さんに対してのグチをわたしに話すこともあった。山吹さんだって完璧な人間じゃない。ちょっとマジメすぎてガンコだとか、時々よれよれのシャツを着るとか、不満そうにわたしに話していた。多分それは、のろけじゃなかった。でも、今の若菜お姉ちゃんは、山吹さんの嫌なところなんてもう全部忘れちゃったんだろう。過去は卑怯なぐらいに美化される。<br />
　あの頃の若菜お姉ちゃんの幸せそうな表情が今もわたしの頭の中にある。辛いぐらいに幸せな笑顔だ。これも美化されているのかな。<br />
　もしかすると若菜お姉ちゃんは幸せ者なのかもしれない。今は苦しんでいても、過去は幸せだった。すごく苦しんでいるのは、すごく幸せだった証拠だ。人生トータルで見れば、幸せ者なのかもしれない。けど、わたしは若菜お姉ちゃんみたいにはなりたくない。<br />
　だからこうして日記を書く。毎日何時間も日記を書く。休みはいつも日記を書いていない時間よりも書いている時間の方が長い。<br />
　過去を美化させたくない。<br />
　過去をそのままの姿で今に残したい。<br />
　若菜お姉ちゃんは美しい過去に縛られて、悲しい人になった。きっと、タンスを開けるときや天井に目を向けるとき、そこに山吹さんがいることを期待する。いるわけがないのに、希望にすがる。わたしはそんな人間になりたくない。<br />
　だから日記を書くのをやめちゃいけない。苦しくてもやめちゃダメだ。<br />
　将来、就職活動で履歴書を書くとき、趣味の欄は日記かな。こんな楽しくない趣味、ありかな。本来は趣味についてとかを書くのが日記で、それなのにわたしは日記を書くこと以外なにもしていなくて、日記を書くことを日記に書いて、日記を書くことが日記に書く内容で、なんだか合わせ鏡みたいだ。時々、なにをしているのか意味不明になる。<br />
　普通の女子大生は日記に恋のこととかを書くんだろうな。<br />
　常盤君、今頃、なにしているかな。恋人いるのかな。楽しいデート中ならどうしよう。どうしようもない。今わたしが日記を書いているなんて考えないだろう。わたしのことなんて考えないかな。しょせんただのクラスメイトだ。二人で出かけたことすらない。<br />
　日記の話を相談したなら、どんな反応を示すだろう。優しい言葉をかけてきてくれるだろうな。常盤君は優しい。勉強もできて、しっかりしている。<br />
　相談したい。<br />
　相談する必要なんてない。ただのクラスメイトだ。常盤君にとってのわたしも、わたしにとっての常盤君も。そう、クラスメイトでしかないんだ。気にする理由なんてない。背は高くないし、顔も普通だし、同じ服を週に２回着ていたりするし、たまにボロボロのスニーカーを履いてくるし、勉強はできても実習は苦手だったりするし、悪いところがたくさんある。優しいけど、完璧じゃない。そうだ、気にする理由はない。<br />
　山吹さんも優しかった。優しかったのに、いなくなった今も若菜お姉ちゃんを苦しめている。<br />
　優しかった山吹さんが憎い。</p>

<p>　昼食にしようかな。</p>

<p><br />
　２００３年６月２８日１４時５７分９秒</p>

<p>　昼食はヤキソバにした。味は普通。ソースが少なすぎたかもしれない。<br />
　なんだか時々、日記を書くために食事している気分になる。日記を書くために生きているような感じがする。考えすぎかな。<br />
　気持ちがうまく整理できない。<br />
　整理してから日記を書くべきなのか、整理するために日記を書くのか、過去を美化しない目的のためなら嘘を書いても許されるのか、わたしを許すのはわたし以外の誰なのか、未来のわたしが過去のわたしを許すのか、過去を美化してしまうような記憶力の乏しい生き物である人間に過去を許す権利なんてあるのか。<br />
　さっき、これまでの日記を読み返してみた。<br />
　日記に書かれているのが真実だと思えないわたしがいる。６年経てば真実だと思えるのかな。真実だと思えるからって、それが真実だというわけじゃない。真実だと思えさえすれば真実である必要なんてないのかな。<br />
　若菜お姉ちゃんは日記を読み返して、どんな気持ちになるんだろう。<br />
　昼食の後、また若菜お姉ちゃんの部屋のドアが開いていた。無人だった。浴室で誰かシャワーを浴びていたから、それが若菜お姉ちゃんだったんだろう。<br />
　シャワーで流すのは汚れなのか涙なのかって考えた。<br />
　部屋に入った。散らかっているから掃除してあげたくなったんだ。昔のきれい好きだった若菜お姉ちゃんは、今はもういない。<br />
　勝手に掃除したとして若菜お姉ちゃんがどんな態度を見せるかはわからない。わたしは今の若菜お姉ちゃんのことをなにも知らない。おはようを言ったならどんな顔をするのか、目を合わせたならどんな顔をするのか、想像ができない。昔はわかった。今のわたしたちは他人同士よりもずっと遠い。<br />
　掃除しようかどうか迷っていて、ふと机の上を見た。ノートが置かれていた。<br />
　ノートの表紙には「日記その５」って書かれていた。<br />
　見ちゃいけないって一瞬思った。次の瞬間には開いていた。読んだりしてごめんなさい。若菜お姉ちゃんの気持ちが知りたかったんだ。それは若菜お姉ちゃんのためかもしれない。わたしのためかもしれない。<br />
　山吹さんと交際していた頃の日記だった。山吹さんがいなくなる半年前の日付だ。<br />
　見慣れた角のない文字で山吹さんへの不満が色々と書かれていた。<br />
　若菜お姉ちゃんも過去を残していたんだ。それでも、今、苦しんでいる。<br />
　なんか、わたしの中にある様々な気持ちがこんがらがった。<br />
　若菜お姉ちゃんの日記を読まなければ、こんなことにはならなかった。それほど迷わず日記を書き続けられただろう。なんだか、内面の全部が空中分解した感じだ。<br />
　これまでも分解していたのかな。<br />
　わたしは日記を書くことで若菜お姉ちゃんみたいな苦しみを避けようとした。若菜お姉ちゃんは、日記を書いていたけど、苦しんでいる。<br />
　日記を書いたところで過去は美化されるってことなのかもしれない。若菜お姉ちゃんは決して過去を美化したりなんてしていないのかもしれない。そもそも山吹さんとは関係のない理由で外に出られなくなったのかもしれない。若菜お姉ちゃんは悲しんでいるなんて一言も口にしていない。お母さんが、山吹さんと会えなくなって悲しんでいるんだと思う、そんなことを言っていただけだ。<br />
　わたしのわからないこと、知りたいことの大半は多分、若菜お姉ちゃんが知っている。でも、日記を読み続ける気にはなれなかった。山吹さんがいなくなった理由までは読まなかった。それだけは勝手に知っちゃいけない。<br />
　知りたいなら若菜お姉ちゃんから直接聞けばいいんだ。どうしてそんな悲しい顔をしているのって、質問すればいい。今は無理だとしても、いつかきっと。<br />
　日記を読んで、若菜お姉ちゃんの気持ちに触れた。本当に久々に触れた。<br />
　会話、もうずっとしていない。このままじゃ若菜お姉ちゃん、言葉を失ってしまう。<br />
　おはようって言ったなら、おはようって答えてくれるかな。一度じゃ無理でも、何回も繰り返せば答えてくれるかな。<br />
　常盤君にもおはようってちゃんと言おう。間違いなく笑顔で、おはようを返してくれる。<br />
　過去を今にするため、わたしは日記を書き始めた。<br />
　もうずっと、未来を見ていない。未来を今に持ってくるにはどうすればいいだろう。<br />
　日記を書くの、やめようかな。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">過去を今に</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 10 Jul 2008 20:01:38 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>わたしに勇気がないこと、見抜かないでください</title>
            <description><![CDATA[<ul>
<li>わたしに勇気がないこと、見抜かないでください</li>
<li>辛い気持ちの捨て方、どこに置いてきたのかな</li>
<li>いつでも泣けるのに、今にも泣きそう</li>
<li>病んでいるのが世界かわたしかは問題じゃない</li>
<li>わたしがわたしを好きになれないことが問題だ</li>
<li>同情も見下しも無視も嫌い</li>
<li>汗を流す人に声援を送る勇気が出ない</li>
<li>半分残るけど、大きなピザを頼むんだ</li>
<li>苦しみが消えるのを願うことに疲れて、トイレに行くことも億劫になる</li>
<li>退屈なパレードは参加する意味がない。充実したパレードは終わりが寂しい。</li>
</ul>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/06/post-25.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">苦悩</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 26 Jun 2008 19:55:40 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ひとりがふたり</title>
            <description><![CDATA[<p>　きっと夢だ。そう、夢に決まっている。こんなこと現実に起こるはずがない。<br />
　頬をつねると、普通に痛い。<br />
　子どものとき、誕生日プレゼントが嬉しくて信じられなくて、やっぱり同じように頬をつねった。あのときのオルゴール、実家の押入れにまだあるかな。<br />
「ねえ、ユウイチ」<br />
　わたしは言う。<br />
「なに」<br />
　正面であぐらをかいている二人のユウイチの声がぴたりと重なる。<br />
　わたしはまた頬をつねる。<br />
「隠してたけど実は双子だったってオチじゃないわよね」<br />
　わたしが質問し<br />
「そんなわけないだろう」<br />
　二人のユウイチが同時に答える。<br />
　夢というより、コントだ。<br />
　長男だからユウイチと名づけたという両親は、二人を見たならなにを思うだろう。<br />
「だって、信じられるわけないじゃない。朝起きたら自分が二人になってたなんて」<br />
「オレだって信じられないよ」<br />
　二人のユウイチが不愉快そうに互いを見る。<br />
　どちらも同じ外見で、同じ髪型で、同じ雰囲気を漂わせている。服は分裂しなかったようで違うけれど、二人ともどう見たってわたしの恋人のユウイチだ。<br />
「なにをどうしたらいいかわからないけど、とりあえず二人の呼び名は決めた方がいいわよね」<br />
　わたしは提案する。<br />
　二人は互いを睨みつけている。<br />
「ユウイチＡ、ユウイチＢでどうかしら」<br />
　わたしは右側のユウイチ、左側のユウイチを順番に指差す。<br />
「どうしてこいつがＡでオレがＢなんだよ。逆だろ。オレが先だからＡだ」<br />
　左側のユウイチが苛立ちをあらわにして言う。「じゃあ逆にしましょう」もしもそう言ったなら、今度はもう一人のユウイチが反抗するんだろう。ややこしい。<br />
「じゃあ、あなたが右ユウイチ、あなたが左ユウイチ」<br />
　わたしから見て右側に座る風景写真がプリントされたＴシャツを着ている方が右ユウイチ、左側に座るビンテージもののジーパンを履いている方が左ユウイチだ。うん、覚えた。でも、わたしが席を外している間に服を交換されたなら、絶対に判断できない。<br />
「右の方がなんだか偉そうだ」<br />
　左ユウイチが言う。<br />
「呼び名なんてどうでもいいよ。どうせこいつ、追い出すから」<br />
　右ユウイチが言う。<br />
「追い出されるのはお前だろう。ふざけんなよ」<br />
　左ユウイチが言う。<br />
「黙れ、偽者」<br />
　右ユウイチが言う。<br />
　頭がおかしくなる。自分相手なんだからもっと仲良くすればいい。<br />
　互いの気持ちが完璧にわかっているはずなのに、どうしてこうなるのか。<br />
「ねえ、ケンカするのはやめようよ。冷静に話し合わないと」<br />
「冷静になんてできるわけないだろう」<br />
　わたしの意見を二人はずれなく否定する。いがみ合っているのに呼吸はぴったりだ。もういっそのこと、二人が付き合えばいいんじゃないか。<br />
「とりあえず、二人同時に喋るのはやめて。聞いててなんか辛い」<br />
「じゃあ、どうすればいいのさ」<br />
　また二人同時に言う。<br />
「簡単なことじゃないの。右ユウイチ、左ユウイチが交互に喋るようにすればいいのよ。それぞれの言い分をさ」<br />
「なんでこいつが先なんだよ」<br />
　左ユウイチが文句をつけてくる。<br />
　いい加減にしてほしい。<br />
「どっちが先でもいいじゃないの。とにかく、従いなさい。さからわないで」<br />
　わたしは厳しさを込めて言う。<br />
　左ユウイチは不快そうながらも、沈黙する。<br />
「まずは右ユウイチから。ねえ、どうしてもっと冷静になれないの」<br />
「なれるわけないだろう。オレは一人分の人生を歩んできて、オレが突然二人になって、これからどうしろっていうのさ。オレがオレの役を奪われたら、オレはどうするのさ」<br />
　オレばかりでわかりづらいけれど、言いたいことはなんとなく伝わってくる。<br />
　わたしがわたしであることを奪われたなら、名前や経歴や家族や恋人を失ったなら、途方に暮れるだろう。<br />
「じゃあさ、次は左ユウイチ。二人が一日交代でユウイチになるってのはどう。奇数の日は右ユウイチがユウイチの順番、偶数の日は左ユウイチの順番。三十一日の分、奇数が多いから、そこはうまく調整ね。社会人になっても半分休めるし、楽でいいでしょう」<br />
　わたしからすればどちらも同じユウイチだ。たとえ二人と交互にデートすることになっても、今となんら変わりがない。一人と付き合いながら二人と付き合うんだから、ちょっとお得かもしれない。戸籍は一つだから、二人と結婚することもできる。<br />
「いいわけないだろう」<br />
　左ユウイチが言う。明らかに納得していない表情だ。<br />
「そうだ。いいわけがない」<br />
　右ユウイチも言う。左ユウイチとまったく同じ表情をしている。<br />
「こいつをサナに触れさせたくない。絶対に」<br />
　左ユウイチは右ユウイチを睨んできつい口調で言う。<br />
「オレだってそうだ」<br />
　右ユウイチは左ユウイチを睨んできつい口調で言う。<br />
　ユウイチって、独占欲の強い男だったんだな。大学一年のときから交際を始めてもうすぐ三年、こんなユウイチは初めて見る。独占欲とかそういう問題じゃないのかな。<br />
　以前、男友達と飲みに出かけても何も言わないユウイチに「もう少し嫉妬してよ」冗談っぽく真剣に話したことがある。なんか、すごい昔のことみたいだ。「わたしの気持ちなんて全部ユウイチ次第なんだよ」甘えた声で肩を寄せたときのこと、二人とも覚えているかな。<br />
　二人と交互にデートしたなら、思い出は分割されるんだ。<br />
「こいつはオレじゃない」<br />
　二人は言う。<br />
「オレはオレだ」<br />
　さらに二人は言う。<br />
　この部屋がこんな険悪な空気になるの、これまでで初めてだ。自分の部屋なのに、居心地が悪い。引っ越せば済む問題じゃない。どこかに逃げてしまいたい。逃げちゃいけないことぐらいはわかる。<br />
　過去、ユウイチと二人きりのときは、穏やかだった。それなのに、ユウイチとユウイチと三人になったなら、この状況だ。<br />
「お前はオレじゃないんだからどっかに行けよ」<br />
　二人が言う。<br />
「どっかに行くのはお前だろう」<br />
　さらに二人が言う。<br />
　分裂した瞬間までは確かに一人の人間だった。でも、二人になった時点で、同じ遺伝子で同じ記憶でも、別人なのかもしれない。一秒に一秒ずつ、違う一秒を体験するに連れて、もっと別人になっていく。そしてやがて声が重なることもなくなる。<br />
　将来、どちらかだけを好きになる瞬間が訪れるのかな。<br />
「じゃあ、やっぱり、どちらか選ぶしかないのね」<br />
　わたしは呟く。<br />
　二人は鋭い視線をわたしに向ける。<br />
　胸が重い。<br />
「だって、このままじゃ、楽しくなれないもの」<br />
　選ぶ、そう口にしたのはわたし自身だ。<br />
　選ぶって、どうやって選ぶんだろう。<br />
　二人ともわたしの好きなユウイチだ。違いなんてない。<br />
　選べるわけがない。<br />
「サナ」<br />
　二人が微笑む。<br />
「そんな悲しい顔するなよ」<br />
　温かい声をかけてきてくれる。<br />
　やっぱりユウイチだ。<br />
「しようがないもんな。オレたちで決めてくるよ」<br />
　二人は言い、互いの視線を合わせ、立ち上がる。等しい歩調で玄関へと歩く。<br />
　ドアの前で並んで靴を履く。<br />
　見慣れた後ろ姿が二つ、外へ出て行く。<br />
　ドアが閉まる。部屋にはわたし一人になる。<br />
　一人の部屋って、こんなに静かだったんだな。ユウイチが遊びに来ているとき以外は大抵一人なのに、気づかなかった。<br />
　部屋、広いな。狭いかな。よくわからない。<br />
　ユウイチの部屋に行くよりわたしの部屋に来ることの方がずっと多かった。こっちの方が大学に近いからだ。<br />
　ユウイチといるときは、一人暮らしだってことを忘れた。<br />
　ベッドの枕元にいるピンクのウサギのぬいぐるみ、住み始めの頃に買ったんだ。一人暮らしの寂しさを紛らわしたかった。ユウイチと出会ってからは、のろけ話を聞かせる相手になった。<br />
　もしも一人になったなら、今のわたしは、ぬいぐるみが百個あっても耐えられない。<br />
　この部屋でユウイチとたくさん過ごした。試験について、クラスメイトについて、就職について、欲しい子どもの数について、死の瞬間は恐いから二人同時に迎えたいということについて、いっぱい話した。もっと話したい。<br />
　今、二人は外でどんな話をしているんだろう。<br />
　わたしには二人のうちの一人を選べなかった。二人になら選べるんだろうか。<br />
　選ぶことを放棄するかもしれない。不公平だからと二人揃ってわたしの前から姿を消すかもしれない。わたしは一人になる。独りぼっちになる。<br />
　ユウイチがいなくなるなんて、考えたことなかった。<br />
　ユウイチもわたしがいなくなるなんて、考えたことなかったかな。きっと、考えたことない。<br />
　想像しなかった苦しみを片方に背負わせるぐらいなら、二人で背負うんじゃないか。<br />
　さっきまでケンカしていたし、考えすぎかな。<br />
　考えすぎじゃないかな。<br />
　涙が、出てきた。<br />
　嫌だ。<br />
　ドアが開く。固い表情をした二人が入ってくる。わたしを見て表情がさらに固くなる。<br />
　自分の心臓の鼓動が、聞こえる。<br />
　二人はさっきと同じようにわたしの正面に並んで座る。<br />
　右ユウイチも左ユウイチも、ユウイチだ。<br />
「泣くなよ」<br />
　二人のユウイチが優しく言葉を紡ぐ。<br />
「ねえ、三人でいるのは、やっぱり無理なのよね」<br />
　わたしが問いかけ、二人がうつむく。<br />
「それは、無理だよ。オレたちは、別人だから」<br />
　右と左から同じ声が悲しく聞こえる。<br />
「そう。そうよね」<br />
「うん」<br />
「話し合い、どうなったのかな」<br />
「ジャンケンで決めることにした」<br />
「ジャンケン」<br />
「オレとしての権利は全部ジャンケンで勝った方のもの。幼い方法だけど、他に決めようがないからさ」<br />
「そう、かもね」<br />
　二人は顔を上げ、真剣な視線でわたしを見つめる。<br />
「見ててくれな。決定の瞬間、サナには見ていてほしいから」<br />
「うん。ちゃんと、見るよ」<br />
「ああ。ありがとう」<br />
　右側のユウイチと左側のユウイチ、二人は向き合い、手を上げる。<br />
「ジャンケン」<br />
　同時に手を下ろす。二人ともグーだ。「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともチョキ「ジャンケン」二人ともパー「ジャンケン」二人ともグー、あいこが続く。やっぱり同じ思考の持ち主だ。二人ともユウイチだ。<br />
　胸が痛い。涙が止まらない。こんな緊迫したジャンケン、他にはない。目を逸らしたい。逸らしちゃいけない。<br />
　三人で過ごすの、本当に無理なのかな。<br />
　子どものとき、誕生日プレゼントになにが欲しいか、母親に聞かれた。オルゴールとガラス細工、なかなか選べず悩んだんだ。<br />
　あのときのわたしは、オルゴールを選んだ。<br />
　オルゴールを貰ったとき、ガラス細工のことなんて頭から消えた。しょせんは物だからだ。<br />
　ユウイチのことは、忘れられない。<br />
　わたしの気持ちって、こんなに不器用だったんだな。まるで子どもみたいだ。<br />
　十九回目のあいこ、二十回目のあいこ、二十一回目のあいこ、二十二回目のあいこ、二十三回目のあいこ、二十四回目のあいこ、このままあいこが永遠に続けばいいのに。二十七回目のあいこ、二十八回目のあいこ、いっそのことどっちのユウイチもいなくなるのが一番楽かもしれない。それで将来、わたしがお母さんになる頃「あのときは大変だったね」なんて三人で無邪気に笑い合うんだ。<br />
　笑い合えるわけがない。<br />
「ジャンケン」<br />
　振り下ろされた右側のユウイチの手はグー、左側のユウイチの手はパー、違う手の形だ。決着、ついたんだ。ついちゃったんだ。<br />
　わたしは目を逸らす。<br />
「オレの負けだな」<br />
　ユウイチの声が聞こえる。<br />
「そうだな」<br />
　ユウイチの声が聞こえる。<br />
　ユウイチのため息が左右から聞こえる。<br />
　わたしは両手で両目をこする。<br />
「約束だもんな。オレ、出て行かないとな」<br />
　わたしの視界の右端、ユウイチが立ち上がる。目を向けると、後ろ姿しか見えない。<br />
「ユウイチ」<br />
　わたしは言う。うまく声が出ない。<br />
　立ったユウイチが振り返る。見慣れた高さから、わたしに微笑む。<br />
　背伸びしてキスをした、いつもの高さだ。<br />
「サナ、幸せにな」<br />
　再びわたしに背を向け、玄関へと歩く。<br />
　わたしから、離れていく。<br />
　離れているのはわたしかな。<br />
　ユウイチは靴を履き、ノブを握る。ノブを回し、外へと出て行く。<br />
　ドアが閉まる。<br />
　部屋にわたしたちだけが残る。<br />
　二人だけが残る。<br />
「ねえ、ユウイチ」<br />
「なに」<br />
　ユウイチは重たい無表情で真っ白な壁を見つめている。<br />
「もう一人の自分と二人でここからいなくなろうとか、考えなかったのかな」<br />
「考えないよ」<br />
「どうして。その方が、公平でしょう」<br />
「そんなことしたら、サナ、悲しむだろう」<br />
「そう、ね。悲しいね」<br />
「だからだよ」<br />
「ありがとう」<br />
「お礼なんていらないよ。オレたちのためでもあったんだから」<br />
　ユウイチはわたしを見ようとはしない。<br />
　もう一人の自分のことばかり考えているんだろう。わたしと同じだ。<br />
「ちょっとトイレに行ってくるわ」<br />
「ああ」<br />
　わたしは立ち、ユウイチの左側を通り過ぎる。<br />
　トイレのドアを開け、中に入る。<br />
　閉めたドアにもたれ、床にしゃがみ込む。<br />
　涙、やっぱり止まらない。<br />
　ユウイチも泣いているのかな。<br />
　部屋を出たユウイチは、どこに向かうんだろう。家に帰るのかな。帰れないんだ。さっきのジャンケンで自分がユウイチであるということを失った。二十二歳でのゼロからの始まりは、マイナスからの始まりだ。<br />
　ユウイチは今、わたしに会いたがっているかな。<br />
　冬に公園のベンチに座って二人でたこ焼きを食べたこと、夏に突然雨が降り出したから傘を買って店から出たならもうやんでいたこと、夜にわたしが部屋で転んで血が出たときにバンソウコウを笑えるぐらいたくさん買ってきてくれたこと、すべての思い出にこっちのユウイチもあっちのユウイチもいたんだ。わたしは忘れない。ユウイチも忘れない。<br />
　どっちのユウイチとも恋人でいたい。どっちのユウイチとも抱き締め合いたい。独占欲が強いのは、誰よりもわたしかな。<br />
　追いかけたい。追いかけよう。<br />
　これも浮気なのかな。</p>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/06/post-24.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ひとりがふたり</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 18 Jun 2008 20:45:06 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>白の逆</title>
            <description><![CDATA[<p>　世界を真っ白にしたいと強く望んだ。その白が目に映るものを意味するのか目に映らないものを意味するのかは判断できない。ただとにかく、白を激しく欲した。<br />
　その欲望は決して前向きなものじゃなかった。白を望むというよりは、白以外を拒んでいた。幸せになりたいと願う気持ちの根っこが辛さだというのと、多分、同じだ。<br />
　五年前のボクは、白くない世界に苦しんでいた。もう耐えられなくなっていた。<br />
　雨が降っているのに気づかず傘を差さないで外を歩く、そんな状態だった。<br />
　白くない世界について上手に説明することは今のボクにはできない。それは五年間を経たからというだけじゃない。当時のボクにだってできなかったことだ。<br />
　見えるものも聞こえるものも、感じるなにもかもが汚れていた。自分以外の人間が普通の顔をして歩いていることが信じられなかった。苦しんでいる自分が正常だと考え、正常であることに涙した。語彙が日に日に減っていき、家族と会話できなくなり、クラスの誰とも会話できなくなる。笑顔も忘れた。人が笑っているところを目にすればするほど、憎しみが募る。一人の部屋で周囲の笑いを思い出し、また憤る。<br />
　どうしてそのような状態になったのか、理由はわからない。大学受験の勉強、テレビから垂れ流される残酷な報道、クラスメイトの失踪、見当たらない夢、理由らしきものはいくらでも思いつく。けれど、どれも主要因ではなくて、それに、後付けっぽい。事態を解決しようと理由を考えれば考えるほど、理由から遠ざかって、苦しみが近づいてきた。<br />
　やがて理由を考えることに疲れ、苦しみをどうにかしたいということばかり頭を巡るようになる。苦しみをどうにかしたいと願うことにも疲れ、トイレに行くことさえ億劫になる。時に世界のすべてに対する真っ暗な怒りが湧き起こり、怒りをどうにもできない自分をなによりも嫌う。<br />
　ある秋の金曜の夕方、ボクは駅前の商店街で白のペンキを買った。それは意識的な行動ではなかった。部屋のベッドの上で泣いていたはずなのに、次の瞬間には路上でペンキ缶を右手に持っていたんだ。「家にいたのにどうしてここにいるんだろう」手にぶら下がったペンキ缶の重みで現実に気づく。握り潰されたレシートで盗難したんじゃないと判断する。<br />
「世界を白くしたい」<br />
　ボクはペンキ缶を手にぶら下げたまま商店街を離れ、人通りのない場所を探した。住宅の並んだ区域の小さなトンネルにたどり着いた。<br />
　ボクは衝動に逆らうことなく、トンネル内の灰色の壁に向かって白いペンキをぶちまけた。<br />
　すぐ正面、灰色の一部分が汚らしく白に染まった。そう、ほんの一部分だけだ。世界の百億分の一にも満たないぐらいの面積だろう。<br />
　白ペンキがいじけているみたいに滴る缶を地面に叩きつけ、顔を両手で覆った。<br />
　すっきりなんかしない。なにも解決しない。自己満足すらもない。虚しさと罪悪感と情けなさばかりが内面を駆け回る。一年前まではニュース番組の悪しき登場人物たちを「現代社会は病んでいる」なんて遠い目で見下していた。それなのに今のボクは昔の自分が見下していた側にいる。病んでいるのが世界かボクかなんて問題じゃない。とにかく、ボクはボクを好きになれない。それがなによりも痛い。<br />
　その場を去る気力すら出ないまま、しばらくうなだれていた。<br />
　どれだけの時間そうしていただろう。<br />
「こんばんは」<br />
　背後から声が聞こえた。振り返ると同年代の男性が立っていた。<br />
　彼は笑っていた。ボクが嫌いな笑顔とはどこか違っていた。<br />
「それ、君がやったのかな」<br />
　ボクはまずいと思った。思うだけだった。<br />
「そうだけど」<br />
　特に深く考えることなく答えた。<br />
　ボクは目を開けていたけれど、現実はすでに見えていなかった。<br />
「そっか。君がやったのか」<br />
「うん」<br />
「仲間だね」<br />
「仲間」<br />
「そう。仲間」<br />
　気安く仲間扱いしないでほしい。<br />
　誰もが相手のことをたいして知りもしないくせに身近な振りをする。<br />
「なにが仲間だっていうのさ」<br />
　ボクは呟いた。きっと、不快さが表情に出ていたと思う。<br />
「世界を白くしたいんでしょう」<br />
　彼はボクの目を真っ直ぐに見つめて言った。<br />
「よくやるんだよ、ボクもさ。壁を白くするの」<br />
　ボクも彼の目を見つめていた。人としっかり向かい合うのは、かなり久し振りのことだった。<br />
「こんなことしてもなにもならないってわかってはいるんだけどね」<br />
　彼は自嘲するように微笑んだ。<br />
「名前、教えてもらえないかな」<br />
　彼は言った。<br />
　ボクは彼から目を逸らした。<br />
「せっかく会えたんだしさ」<br />
　彼はさらに言った。<br />
「ユウ、だよ」<br />
　ボクは目を逸らしたまま、囁いた。<br />
　まだ警戒心があり、名字をばらす気にはなれなかった。<br />
「ユウか。ボクは南カズマ。カズマって呼んでよ」<br />
　ボクは再びカズマの目に視線を向けた。カズマは笑ってくれていた。<br />
「こんなことするの、自分だけって思ってたかな」<br />
　カズマは質問してきた。<br />
　ボクは静かに頷いた。<br />
「まあ、そうだよね。ボクも前は同じだった。世界を白くしたいなんて、ボクぐらいしか思ってないだろうなって」<br />
　ボクが考えることはいつだってボクしか考えないことだ。仲間なんていない。ずっとそう思ってきた。確かめることなんてせず、決めつけてきた。<br />
「ちょうどいい日に会えたよ。ユウと」<br />
　カズマは言った。<br />
「ちょうどいい日って」<br />
　ボクは尋ねた。<br />
「実は明日、面白いことを計画してるんだ。よければ、一緒にやらないかな」<br />
「面白い、こと」<br />
「そう。面白いこと」<br />
　カズマは面白いことについてボクに話してくれた。それは今にして考えればとても信じ難い内容だった。でも、ボクは興味深く正面から受け止めた。世界を白くしたいという願いを見抜かれた時点で、かなり心を許していたのだろう。それと、もうなにもかもがどうでもよかったのかもしれない。<br />
　カズマが最初に口にしたのは、世界を白くしたいと願う人が他にも多数いるということだった。学校の同級生経由で知り合った人だったり、ボクのときと同じように壁にペンキをかけているところを偶然見かけた相手だったり、どういう経緯で出会ったのかを明らかにできない相手だったり、とにかく何十名もいるとボクに告げた。<br />
　そして、面白い計画とは、そのメンバーで一斉に街中に白のペンキをぶちまけるというものだった。<br />
　そんなことをしても世界すべてが白くなりはしない。けれど、日々の生活における白の量が少しは増える。それに、同じ街に暮らす人たちにボクらの存在を主張することができる。この世界を不快に思っている者がいるんだというメッセージだ。たとえそのメッセージがなにも成さないとしても、行動を起こしたという満足感は得られる。行動を起こしさえすれば、その結果を元にして次どうするべきかが見えてくる。<br />
　ついさっき、ペンキをぶちまけてもなにも得られないと知ったばかりのボクなのに、その計画を妙に素直に受け入れられた。<br />
「どうだい。一緒にやるかい」<br />
　カズマは笑顔で尋ねてきた。話している間、ずっと笑顔だった。ボクに拒まれるなんて考えは微塵もない様子だった。<br />
　ボクはカズマの誘いに対して、迷うことなく首を縦に振った。<br />
　翌日の二十六時に同じ場所で待ち合わせする約束を交わす。ボクは平静を装い「じゃあ」と素っ気なく一言だけ残してその場を去った。<br />
　胸の内は落ち着いてなんかいなかった。鳥肌が立っていたのは寒いからじゃない。計画に対して興奮していた。「ボクにも仲間がいたんだ。仲間たちと今を壊すための行動を起こせるんだ」約束の時間がとにかく待ち遠しくて、一睡もできなかった。「こんな気持ちにボクもなるんだ」そんな風に考えることすらないほど、約束の瞬間が早く訪れることを切に望んだ。警察に捕まる可能性があることへの不安はなかった。共犯者たちの存在が心強かったのか、逮捕されても構わないという気持ちだったのか、それとも、不安を忘れてしまうほどの喜びに満たされていたのか。<br />
　ボクの知らないボクがいた。ボクの忘れたボクがいた。<br />
　ボクはまだ、大丈夫だった。<br />
　約束の夜、こっそり家を抜け出したボクは三十分以上前からトンネルにいた。二十分前、カズマが現れた。<br />
「ユウ、ちゃんと来たね」<br />
「うん。来たよ」<br />
「それじゃあ、行こうか」<br />
　カズマは歩き始め、ボクはそのすぐ横に並んだ。その手を握りたいぐらい、隣に人がいることが嬉しかった。<br />
　月の隠れた空の下、車の通らない広い道を無言で進む。道を挟んだ住宅の明かりはどれもが消えていた。数分後、中学校の前を通り過ぎる。ボクの母校だ。ボクは校舎に目を向けることはせず、うつむき加減に歩いた。さらにしばらく同じ道を行き、路地に入っていく。<br />
「あそこだよ」<br />
　カズマが指差す先には、大きな公園があった。地元なのにボクの知らない公園だ。知らないのではなくて、忘れたのかもしれない。<br />
　敷地面積は広いのに、遊具はほとんどない。<br />
　街灯だけの薄暗い空間、遠くからでも三十名以上の人がいること、大きなトラックが停まっていることはわかった。<br />
「お待たせしました」<br />
　カズマはその場にいる人たちに軽く頭を下げた。ボクも同じようにした。<br />
　ほとんどの人はボクらより年上のようだった。父さん母さんと同世代だろう人もいた。<br />
「みんな早く着きすぎちゃってさ。遠足みたいだ」<br />
　スーツ姿の二十代後半ぐらいの男性がそう言って笑った。他の人たちも笑っていた。<br />
　女性も三人いた。<br />
「一緒にいるのは、友達かな」<br />
　トレーナー姿のサングラスをかけた男性がカズマに質問した。<br />
「はい。友達で、仲間です」<br />
　友達、久々に聞いた言葉はどこか違和感があって、どこか温かかった。<br />
「そうか。よろしくな」<br />
　質問した男性はボクを見て優しく微笑んだ。<br />
　ボクは会釈をして、心の中でよろしくと呟いた。<br />
　白い世界を望む人がボク以外にもいるということが不思議だった。ボクと年齢が違っていたり性別が違っていたりする人たちなのに、同じ思いを持っている。不思議で、また、安心した。<br />
「じゃあ、全員揃ったし、始めようか」<br />
　誰かが言った。<br />
　真顔、固い笑顔、幸せそうな笑顔、表情は統一されていなかったけれど、みんな頷いた。カズマとボクも頷いた。<br />
　トラックの荷台に何十と積まれたペンキの缶を、二つあるいは三つ、四つ、それぞれの手に持つ。<br />
　自分の胸の鼓動が聞こえた。唾を何度も飲み込んだ。<br />
「事前に伝えてある通り、行動後の集合はなし。各自の好きな場所にペンキをぶちまけて、それで終了。全員、白が増えた世界で少しでも楽な気持ちになれることを願ってる。もう、同じ計画が行われずに済むことを、願ってる。辛くなったときは、自分がぶちまけた白のペンキを眺めよう。皆の健闘を祈る」<br />
　リーダー格であろう大学生っぽい男性の言葉で、ボクらは散った。また例のトンネルで落ち合う約束をして、カズマとも違う方向へと歩いた。<br />
　暗い街を一人行く。心細かった。でも、足は止まらなかった。<br />
　最後の男性の言葉が胸をよぎった。<br />
　白の世界を願うボクがいる。楽な気持ちを願うボクがいる。満たされることを願うボクがいる。ボクはまだ、多くを願うことができる。<br />
　ボクが向かった先は、小学生時代に通っていた児童館だった。<br />
　児童館は、さすがに古ぼけてはいたものの、昔とほぼ変わらない姿でそこにあった。<br />
　ボクは児童館から目を逸らし、また、目を向ける。すぐ横には駐車場がある。駐車場も昔のままだ。そして、駐車場の塀の落書きも、昔のままだった。真っ赤なスプレーで大きく記されたわいせつな言葉、初めて見たのは小学二年生のときだ。学校から児童館へと向かう途中、昨日まで綺麗だった塀が汚されていることに怒り、悲しくなった。どうしてこんなことをする人がいるのだろうと、まだそのわいせつさに気づけない年齢のボクはただただ純粋な心で嘆いた。児童館のお兄さんに落書きを消すようにお願いした。その願いが叶うことはなかった。児童館の敷地内ではないから等の大人の事情があったのだろう。<br />
　やがてボクはその落書きがまったく気にならなくなり、そして、ペンキを壁にかける側の人間になった。<br />
「あのとき、自分で消せばよかったんだよな。こんなもの、簡単に消せるんだ」<br />
　ボクは落書きと向き合い、呟いた。<br />
　どうすれば塀が綺麗になるだろうなんて考えている間に、動けばよかったんだ。<br />
　ボクは白いペンキを思い切り塀にかけた。缶三つ分、全部だ。灰色の塀、白いペンキはいびつな模様を描いていて、綺麗とは程遠い。でも、赤い落書きはほとんど見えなくなった。<br />
　気持ちがすっとしたりはしない。ただ、トンネルでのときのような嫌な感じはなかった。<br />
　ボクは白くなった壁を少し見つめてから、その場を離れた。<br />
　トンネルへと戻る間に、二箇所、白くなった場所を見た。一箇所は喫茶店の扉で、一箇所は曲がり角のガードレールだった。どうしてそこが選ばれたのかはわからない。ボクが理由を知ることに意味はない。理由なんて本人にしかわからない。でも、理由をわかってあげたい気持ちにはなった。<br />
　トンネルに着くと、カズマはすでに待っていた。<br />
「おかえりなさい」<br />
　カズマは明るく言った。<br />
「ただいま」<br />
　ボクは言った。<br />
「少しは、心が軽くなったかな」<br />
　カズマが質問してきて<br />
「どうだろう」<br />
　ボクは答えた。自分の気持ちがいまいちつかめていなかった。嬉しくも悲しくも楽しくもない。ただ、少なくとも、苦しくはない。<br />
「ねえ、ユウ。せっかくだし、高いところから街を見ない」<br />
　カズマは提案した。すぐ近く、十二階建てのマンションの屋上にボクを連れていった。<br />
　エレベーターを降り、それなりに広いスペースの端、フェンス越しに街を見下ろした。<br />
「白いね」<br />
　カズマは呟いた。<br />
「うん。白い」<br />
　ボクも呟いた。<br />
　数十人がペンキをぶちまけたぐらいで白くなるわけがないことぐらいわかっている。それでも、白かった。<br />
「ボクらはまだ、白くないね。ペンキを被ってない」<br />
　カズマに言った。<br />
「じゃあ、被ろうか」<br />
　カズマは優しく微笑んで言った。<br />
「きっと、そんなことじゃないんだ」<br />
　ボクはそう口にして、白くなった街に再び視線を向けた。<br />
「そうだな。そんなことじゃないね」<br />
　カズマの同意が、すごく嬉しかった。<br />
　ボクは自分の名字をカズヤに教えた。<br />
　あれから五年が経ったんだ。<br />
　今じゃあのときの白のペンキは街のどこにも残っていない。上から塗り潰された。ボクらの行動は、表面的にはすべて消えた。<br />
　カズマとはあの頃からずっと友達でいる。二人とも半年後、浪人や留年を経験することなく、大学を卒業する。有名企業ではないけれど、就職先も決定済みだ。まあ、順調な日々なのかもしれない。<br />
　共に行動した他のメンバーとの繋がりはゼロだ。行動直後はカズマ経由で何名かについての近況を少し聞いたけれど、今はまったくない。苦しみのない日々を過ごしていてほしいなと思う。思うだけだ。<br />
　思うだけ、それで充分だろう。<br />
　白を望むことはほとんどなくなった。<br />
　今は頻繁に、世界の鮮やかさや美しさを感じる。目や心に映る景色に、素朴な幸せを見つける。カズマと遊んでいるときや、大学で研究に没頭しているときや、家族と食事しているときだ。<br />
　時に美しさが恐くて、過去とのギャップが苦しくて、逆に汚れてしまってほしいと願うことがある。<br />
　苦しんでいた昔に戻りたいと望んでしまうこともある。昔のボクが今のボクのそんな望みを知ったなら、怒り狂うだろうな。ボクの気持ちなんてどうせわかってくれていないくせにと。<br />
　そう、今のボクに昔のボクの気持ちはわからない。「あの頃のボクは鮮やかさや美しさを受け止めるのが今より苦手だったんだな」なんて分析したところで、それはただの見下しに過ぎない。<br />
　今のボクにも辛くて泣くときはある。まるで昔のボクみたいだなんて考える。でも、どれだけ辛くなろうが涙を流そうが、それは昔のボクじゃない。<br />
　今のボクに当時と同じ行動はできない。当時の行動を正しいと言ってあげることもできない。<br />
　当時のボクらと同じように、今、世界を白くしたいと願っている人がたくさんいるだろう。そんな人に出会っても、現在のボクに伝えられる言葉はない。汚れていることと色があることは違うんだと伝えたいけれど、伝える自信がない。<br />
「白の逆って、黒じゃないよね」<br />
　昨日、駅前の喫茶店、ボクはカズマに言った。<br />
「うん。世界には白なんてないんだ」<br />
　カズマは答えた。<br />
　カズマの笑顔は昔とまったく変わらない。温かい。<br />
　昔のボクは笑顔が嫌いだった。でも、出会いのとき、カズマの笑顔は嫌じゃなかった。それはボクにしっかりと向けられた笑顔だったからなのだと、今はわかる。<br />
　もしも当時のボクらと同じような人に出会ったなら、せめて、ちゃんと見つめてあげたい。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">白の逆</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 05 Jun 2008 19:49:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ボク2</title>
            <description><![CDATA[<p>　ボクはどうして生きているのか、ずっと悩んできたんだ。だって、友達がいなくて、そもそも家を出ないから誰とも交流がなくて、いる意味がない。ずっとずっとずっと悩んできた。<br />
　今日、やっとわかった。ボクの居場所はここじゃなかったんだ。本当のボクの居場所へと旅立つため、今日まで生きてきたんだ。ボクの居場所は、宇宙の別の星にある。別の星っていうのはおかしいかな。こことは違うところにある地球が、ボクの居場所だ。<br />
　今日、夢を見た。違う、夢じゃない。夢っていうのは多分、寝ているときに頭を流れた想像のことだ。ボクが見たのは、受けたのはメッセージだから夢じゃない。メッセージが送られてきたのがたまたま寝ているときってだけだから、紛れも無い現実だ。<br />
　なんで夢じゃないと断言できるのかって、この事実を知らない人は笑うかもな。笑いたければ勝手に笑えばいい。笑い返してやる。誰だって夢と現実の違いなんて説明できない。現実だと思っている方が夢で夢だと思っている方が現実かもしれない。みんな単純な感覚だけで判断している。ボクが受信したメッセージは、現実だ。学校に通っていた頃はくだらないことばかり話すってバカにされていた。でも、そんなボクだけれど、これは真実なんだ。<br />
　興奮って、こういう心境を示すんだな。知らなかった。<br />
　起きてから一時間、まだ心臓のバクバクが治まらない。<br />
　ふとんを頭まで被ったって、なにも落ち着かない。<br />
　まさか本当に地球がもう一つあるなんて、嘘みたいだ。この星から逃げられるのならって腐るほどたくさん考えてきたけれど、現実になるなんて、過去のボクに教えてあげたい。長年苦しんできた。外に出られなくなって、家にいるからって苦しみから逃げられるわけじゃなくて、辛かった。胸が痛い。思い出したくない。<br />
「地球はもう一つあるんだよ」<br />
　眠っているボクに優しい言葉が届いた。穏やかな女性の声で「こっちにおいでよ」聞こえた。<br />
　起きたとき、ボクは泣いていた。嬉し涙が創作上だけのものじゃないって、初めて知った。<br />
　これまでずっと、おかしいと思っていたんだ。世界の偉い人たちがこの地球を汚してばかりいること、疑問だったんだ。どんな政策もどんな行事も、ムダな工事をしてムダな建物を造って、ムダな交通を生む。まるで地球を汚すことが目的であるかのようだって思っていた。温暖化対策って叫びながら、電力消費が激しくなるとわかっていてＩＴを推進する。排気ガスを規制しながら、自動車産業が売りだって自慢げに言う。変な話だらけで、ボクは混乱していた。もう一つ地球があるからこの地球を汚してもいいんだって考えれば、疑問は解決する。<br />
　ここがダメになっても、代わりがある。<br />
　偉い人たちはどこからかもう一つの地球の情報を入手していたんだ。<br />
　もしかしたら普通の国民たちの多くも知っているのかもしれない。車を好きなだけ走らせて、ゴミを好きなだけ出して、地球を汚し放題だ。<br />
　地球の視点で見れば、他の人よりボクの方がずっと優しい。部屋に閉じこもって、交通機関をまったく利用していない。出すゴミの量も少なめだ。<br />
　ボクは地球に優しくて、人間に優しくない。<br />
　人間の視点で見ると、ボクなんて、いてもいなくても同じ存在だ。<br />
　ボクがこの部屋から突然消えたとしても、誰の気持ちにもなんの変化もない。<br />
　地球の視点で見たって、ボクはいない方がいい。他の人に比べて地球に優しいとしても、ゴミをまったく出していないわけじゃない。地球を汚してはいる。<br />
　地球を汚さない人間なんていない。地球に優しいだけじゃここにいる意味がない。<br />
　人間に優しくないと意味がない。<br />
　ボクは、誰とも接していない。<br />
　ボク以外の人間は全員、地球がもう一つあることをすでに知っていたのかもしれない。ボクだけが仲間外れなのかな。<br />
　ボクは、孤独だ。<br />
　捨て猫だって同じ境遇の捨て猫と出会えば孤独じゃなくなる。ボクが孤独じゃなくなる方法は、この部屋にいる限り、ない。<br />
　別にいいんだ。どうせすぐ、この星からいなくなるんだから。<br />
　ボクはボクの居場所へと飛ぶ。<br />
　二つ目の地球があることは誰もが知っているとしても、二つ目の地球に移動する手段はボクしか知らないはずだ。もしも知っているなら、汚れきったこの星にいるはずがない。<br />
　目を閉じてもう一つの地球を強く望みながらゆっくりと百数える、それだけでこの星から脱出できる。メッセージがそう教えてくれた。今のボクの日々に存在しない温かい声で、呟いてくれた。<br />
　この地球よ、さようなら。<br />
　一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八、四十九、五十、五十一、五十二、五十三、五十四、五十五、階段を上る足音が聞こえる。部屋へと近づいてくる。<br />
　ドアが二回、弱々しくノックされる。<br />
「お昼ご飯できたわよ」<br />
　母さんがドアの向こうから言う。いつも通り、どことなく怯えた声だ。<br />
「いらねえよ」<br />
　ボクはふとんの中から怒鳴る。<br />
　いいところだったのに、どうしてジャマするんだ。<br />
「食べたいときに勝手に食べるよ。捨てな」<br />
　ボクはさらに声を張り上げる。<br />
「ごめんなさい」<br />
　母さんのか細い声がはっきりと聞こえる。<br />
　そんな声、しないでくれ。<br />
　ボクはもう一つの地球に行ったとしても、この声を思い出すのかな。この星でのことを、思い出すのかな。<br />
　足音が遠ざかっていく。<br />
　涙が、出てきた。<br />
　ふとんの中の暗闇が、涙でゆがむ。<br />
　みんなもしかしたらもう一つの地球への移動方法を知っているのかもしれない。でも、この星が好きだから移動しない。ボクだけがこの星を嫌っているのかもしれない。<br />
　ボクだけでいいじゃないか。<br />
　ボクはもう一つの地球へと移り住む。そうすればここにいる誰とも会わなくなるんだ。どうせ今も会っていないけれど、今も誰とも無関係だけれど、もっと完璧な無関係になるんだ。<br />
　完璧な無関係は、過去を綺麗に忘れさせてくれるかな。<br />
　ゼロからのスタートを切らせてくれるかな。<br />
　もう一つの地球はどんなところかな。もう一つの地球の景色、メッセージが少しだけ見せてくれた。多分、東京のようだった。ボクの知っている新宿とよく似ていた。もしかして、同じだったかもしれない。<br />
　新宿、どんな街になっただろう。五年以上行っていない。昔は通学のために毎日行った。ゲームセンターで楽しんで虚しくなって、時々トイレで吐いた。たった五年、たいして変わっていないかな。五年あれば、全然違う街になっているかな。五年間、ボクは変わった。五年間、世界はどれだけ変わっただろう。<br />
　ボクにとってこの星は、少し大きすぎるんだ。<br />
　どんな星でも、この星じゃなければそれでいい。ボクはただ、ここじゃない場所へ行きたい。<br />
　ここじゃないところ、そう、ここじゃないところ。<br />
「ここじゃないところに行きたいんだ」<br />
　昔、ボクは言った。誰に対して言ったんだろう。友達だったかな。先生だったかな。思い出せない。いつのことだろう。思い出したくない。あの頃もやっぱり孤独を感じていて、でも、周りに人がいた。人がいてくれた。<br />
「じゃあ、引っ越せば」<br />
　誰かがそんなボクに言った。<br />
「引っ越しぐらいじゃ意味がないんだよ」<br />
　ボクは答えた。<br />
　引っ越しぐらいじゃ意味がないなら、どこまで行けば意味があるんだろう。家を出ればそれで今のボクにとってはここじゃないところ。家を出たぐらいでなにか変わるのかな。家を出たぐらいじゃ変わらない。でも、試してみないとわからない。試す勇気なんてない。ふとんを出ることさえ、したくない。<br />
　他の星に行けば、それは絶対にここじゃないところのはずだ。家を出るより簡単に、行ける。<br />
　ここじゃないところに行きたい、ずっとそう願ってきた。その願いが、今、叶う。なによりも強く望み、なによりも遠かった夢が、叶うんだ。<br />
　もう一つの地球に行って、ボクはどう過ごすだろう。<br />
　虹がどこから伸びているのかを探し回った子ども時代のように、クリアな気持ちのボクがいるはずだ。あの頃のボクは、周りの目なんて気にしなかった。自分が自分でいることに対して素直だった。<br />
　一、二、三、四、五、六、七、八、きゅう、じゅう、十一、十二、十三、じゅうよん、じゅうご、じゅうろく、じゅうなな、十八、十九、二十、二十いち、にじゅう二、二十さん、にじゅうよん、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、さんじゅう、さんじゅういち、さんじゅうに、さんじゅうさん、さんじゅうよん、さんじゅうご、さんじゅうろく、さんじゅうなな、さんじゅうはち、さんじゅうきゅう、もう一つの地球に行って、ボクはどこにいるだろう。<br />
　そこがこの地球とまったく同じ星なら、この日本と同じ日本があって、この家と同じ家があって、この部屋と同じ部屋がある。今のボクがふとんを被って震えるこの部屋が、ある。<br />
　ボクはやっぱりその部屋の中にひきこもるんじゃないか。<br />
　もう一つの地球に行く意味、なんだろう。<br />
「悔しかったらまずは家の外に出てみろよ」<br />
　昔、誰かがボクに言った。誰だろう。ボクだ。ボクがボクに言ったんだ。<br />
「家の外に出てもどうにもならないよ」<br />
　ボクはボクに言った。<br />
「そんなこと出てみないとわからないだろう」<br />
　ボクはボクに言った。<br />
　ボクはボクの声から耳をふさいで、そして、ふさぎ続けて今だ。<br />
　もう一つの地球にもボクはいるのかな。もう一つの地球のボクはなにをしているだろう。やっぱり同じように部屋に閉じこもって、やっぱり同じようにこの地球にいるボクのことを考えているのかな。<br />
　人に嫌われるのは嫌だ。一人で生きていきたくない。<br />
　自分に嫌われるのも嫌だ。ボクと一番長くいるのはボクなんだから。<br />
　ここにいる限り、人にもボクにも、嫌われる。<br />
「悔しかったらまずは家の外に出てみろよ」<br />
　ボクがボクに言い放つ。<br />
　ボクは死ぬまでボクだ。<br />
　階段を上る足音が聞こえる。母さんの足音だ。<br />
　また来てくれたんだな。<br />
　足音が部屋の前で止まる。<br />
　静かだ。<br />
　静けさが胸に痛い。<br />
　ドアが二回、力なくノックされる。<br />
「ご飯、本当に食べないの」<br />
　さっきよりさらに怯えた声で尋ねてくる。<br />
　ボクはふとんから顔を出す。<br />
　眩しい。</p>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/05/2.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ボク2</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 24 May 2008 17:48:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>世界滅亡</title>
            <description><![CDATA[<p>「想像力がないやつは人間じゃないね。人間のクズですらない。ただのクズさ」<br />
　八神先生の言葉が記憶に浮かび上がる。<br />
　嫌なことがあったときはいつもこうだ。<br />
　辛い未来ばかりが頭を巡るような想像力ならなくなってしまえばいい。それとも、辛い想像とも向き合わないといけないのかな。<br />
　八神先生は学生に「人間失格」ってあだ名をつけられていた。細身に白衣姿だから「マッドサイエンティスト」とも呼ばれていた。そんな人の言葉が他のどんな先生の言葉より心に残っているって、まずいことかもな。でも、八神先生はバカにされながらも嫌われてはいなかった。<br />
　玄関の鍵をかける。靴を投げ捨て、明かりを点けないまま、ふとんの上に寝転がる。真っ暗だ。闇に飲み込まれそうだ。どうして闇の中は飲み込まれそうな気持ちになるんだろう。ポジティブな人間は光に飲み込まれそうになるのかな。<br />
　目を閉じ、重い息を吐き出す。<br />
　涙が出そうだ。<br />
「泣きたいときは泣くべきだ。人前でも恥ずかしがらず泣くんだ。感情表現できない人間なんて、機械未満だ。機械は感情がないが、頭の回転は人間より遥かに速いからな」<br />
　これも八神先生の言葉だ。実際、突然授業中に泣き出したことがあったな。みんなくすくすと笑いながら、泣き終わるのを三十分近く待っていたんだ。<br />
　八神先生は男性にしては高い声で色々な話をしてくれた。<br />
　高校時代、懐かしい。戻れるなら戻るだろうか。戻ったところで現在になんの変化もないだろう。でも、戻りたいな。当時は三十分の価値なんて考えなかった。ムダに流れた時間があとでいくらでも取り返せるって思えていた。「八神先生みたいに頭のおかしい人が先生になれるんだもんな」ボクと御手洗は笑い合った。未来は明るかった。<br />
　あの頃、八神先生は何歳だったのか。二十六歳だとか三十二歳だとか、口にする年齢がいつも違っていた。正確にはわからないけれど、外見的に三十歳前後だったのは間違いない。<br />
　ボクは三十歳になったとき、あんなに素直に泣いたり笑ったりできているのか。今から七年後だ。卒業は今から五年前だ。五年前は遠くて七年後は近いって、なんでだろう。<br />
　背中と尻が痛い。ふとんの下、畳の固さが直に伝わってくる。こんなに固かったかな。<br />
　なんか、疲れたな。<br />
　スーツだって制服だって決められた服装に違いはない。それなのにどうしてスーツは息苦しくて制服は恋しくなるんだろう。<br />
　スーツ、脱ぎたい。<br />
　起きられない。<br />
「お前らは地球に住んでいる。人間社会だってことを考えると、世界に住んでいるって言ってもいいな。世界の一員である以上、世界がどうすれば繁栄するかを知らないといけない。そのためには世界がどうすれば滅亡するかも知っておくべきだ。これ、重要なことだからな。なにかを考えるときはそれと正反対のなにかについての知識もないといけないんだ。悪を知らずに正義を語るやつなんて嘘臭いだろう。楽しく生きたければなにが楽しくないかを知らないといけない。世界を良い方向に進めるためには世界を悪い方向に進める手段も知っておかないといけない」<br />
　八神先生が授業中に話していた。正義を語るのに悪を知らないと嘘臭いって、真実かもしれない。当時のボクらは、日常の楽しい面ばかり見過ぎていた気がする。<br />
　嫌な面を見たくないから、嫌な面を見なくて済む道ばかり選んで歩いていたのかな。選んでも許される年代だった。<br />
　切なさも情けなさも笑えば飛んでいった。実際には飛んでいってなんていなくて後回しにしているだけだなんて、気づきはしない。<br />
　社会は若者を甘やかして、でも、期限が切れたなら放置するだけ。<br />
　八神先生の担当は保健体育だ。それなのに、人体についてより社会について語ることの方がずっと多かった。<br />
　今にして考えれば、明らかにルール違反な先生だ。当時だってそう思っていた。でも、クラスの誰一人として反抗しなかった。親から学校にクレームがついたなんて話も聞かない。大学進学率がゼロに近い低偏差値な学校だからかな。きっと、それだけじゃない。<br />
　八神先生の奇抜さは新鮮で、ボクらが盛り上がるために最高に役立つ話題の種だった。ボクらは「こんな授業を受けていていいのかな」漠然とした不安を多少は抱きながらも、普通とされる高校生活との差異に優越感を持っていた気もする。「八神先生の授業を受けている自分たちは特別だ」心のどこかで思っていたんだろう。自らなにも行動せず喜びを得るなんて、八神先生が最も嫌いそうなことだ。「八神先生がもっとちゃんと授業してくれてれば今の状況も少しは違ったかもしれない」こんなことを考える時点でダメなんだろう。<br />
　八神先生は世界繁栄と滅亡についての持論を三十分ぐらい語ってから、ボクらに宿題を出したんだ。<br />
「来週の授業までに世界滅亡の方法について作文を書いてこい。どうすれば世界を滅亡できるか必死に考えるんだ。たまには脳みそ使え」<br />
　教室内、うざったさと楽しさが入り混じった「えー」が至るところから上がった。八神先生はそんな声を気にする素振りなく、原稿用紙を配った。一人五枚ずつだ。学生たちは不快げにしたり笑ったりしながら原稿用紙を鞄なりにしまっていく。<br />
　その日の帰り道、学校から駅までの通学路、ボクは御手洗と歩いていた。男子高校生二人、周囲の大人たちには希望に満ち溢れて見えていたのかな。<br />
「御手洗のクラスも出されたかな。世界がどうすれば滅亡するかって作文の宿題。八神先生の宿題って、いつも意味不明だよな」<br />
　まだ明るい時間帯、住宅街の大きな通り、ボクは言った。少しでもたくさん話したくて、ゆっくり歩いていた。二年生に上がりクラスが別々になったばかりだったんだ。一年生のときに比べて共に過ごせる時間が減ったことで、焦りに似たものを少し感じていた。<br />
「そんな宿題出されたんだ。うちは出されてないよ」<br />
　御手洗は力なく微笑み、答えた。疲れがありありとしていた。<br />
「そっか。そのうち出されると思うよ。それとも、またいつもの気紛れかな」<br />
　ボクは御手洗の様子に戸惑いながら言った。<br />
　信号が赤になり、ボクらは立ち止まった。しばらく沈黙が続いた。<br />
　当時、会話がスムーズにいかないことが多くなっていた。「別々のクラスになってもたいした問題じゃないさ。授業が違うってだけで、休み時間は会えるし」深く考えずそう話していた過去とのギャップがさらなるぎこちなさに繋がる。<br />
　信号が青になり、ボクは口を開いた。<br />
「宿題、どうしようかな。世界滅亡の方法なんて思いつかないよな。そんな簡単に思いつくなら誰かやってるだろうし」<br />
　ボクは横を歩く御手洗に視線を向けた。どこか困惑気味の笑顔だった。<br />
　正面を向き直すと、数十メートル先の高架上を黄色い電車が走っていた。電車がやけに無機質に見えて、世界をとても遠くに感じた。<br />
「岸田は、考えたことないかな」<br />
　御手洗が尋ねてきた。<br />
「なにを」<br />
　ボクは尋ね返した。<br />
「世界がなくなればいいって」<br />
　御手洗は抑揚のない口調ではっきりと言った。<br />
　ボクはその表情を見ることができず、ただ前を向き続けていた。<br />
「どうだろう。よくわからないや」<br />
　とりあえずの言葉を口にして黙った。<br />
　御手洗も黙っていた。<br />
　あのとき少しでもなにかを話していれば、それが役に立つことでも立たないことでも、今が少しは変わっていたのかな。<br />
　御手洗はボクが向き合っていないものと向き合っていた。<br />
　一年生の二学期まで、御手洗は明るかった。暗さを滲ませるようになったのは三学期からだ。家庭の事情で悩んでいた。両親が離婚しそうだということを知った。それしか知らなかった。深い部分には触れないようにしていた。あの頃はそれが友達としての気遣いだと信じる必要もないぐらいに信じていた。<br />
　無力さに後付けの理由をつけていただけだったのかもしれない。<br />
　互いに帰宅部、読んでいるマンガ雑誌が同じ、人見知りがち、そんな共通点を元にボクらは友達になった。でも、友達を続けたのは共通点があったからじゃない。理屈じゃないもっと感覚的な部分で惹かれ合っていたからだ。<br />
　ボクは家に帰り、机に向かい、世界滅亡の方法について考えた。考えながら、御手洗のことばかりが思い浮かんだ。「世界を滅亡する方法がわかったなら御手洗はどうするだろう。実行されたならどうしよう」ボクは悩む。「そんな方法あるわけがない。けど、実現から程遠いアイディアでも、話せば御手洗が少しは明るく笑ってくれるかもしれない」ボクは辞書を捲りながらアイディアの糸口を探した。「方法があるとしても、実現したりはしない。だってボクがいる」一週間、日によっては夜中まで、多くの時間を作文に費やした。<br />
　爆弾を作るとか隕石が落ちるのを願うとか、幼稚園児並のアイディアしか浮かばなかった。頭が柔軟な幼稚園児の方がもう少し使える発言をしそうだ。あまりに低レベルすぎて話の広げようもないから、それらのアイディアを御手洗に話すことはできなかった。話していればよかった。<br />
　二人でカラオケに行ったり、ファミレスでくだらないテレビ番組の話を延々としたり、遠回しな励ましばかりをボクは選んだ。卒業までずっとそうだった。御手洗の母親が実家に帰ったことを知っても、具体的な何一つとして口にできなかった。<br />
　卒業すれば事態が好転する、そんなこと思っていないのに思っている振りをした。<br />
　卒業式のあと、御手洗と職員室に行った。先生たちへの挨拶のためだ。<br />
「三年間ありがとうございました」<br />
　整頓されていない書類だらけの机の前、ぼうっとシャーペンを回している八神先生にボクらは言った。<br />
「おう」<br />
　八神先生は感慨に浸っている様子なんて微塵もなく答えた。<br />
「先生のこと、忘れませんよ」<br />
　ボクは白々しさを装って言った。<br />
「ボクらのことなんてどうせすぐに忘れちゃうんでしょうけどね」<br />
　御手洗は笑いながら言った。ボクは上手に笑えなかった。<br />
「それがどうかは将来自分たちで確かめるんだな。三年後ぐらいにでも会いに来いよ。名前を覚えてるか知るためにさ」<br />
　八神先生はそう話して笑った。「自分たちで確かめるんだな」その言葉の八神先生らしさが面白くて、同時に、他の先生たちのどんな優しい台詞よりも温かかった。<br />
　今、どうしているだろう。問題を起こしてクビになっていそうだ。それとも、今も変わらず個性を放ち続けていたりするのかな。<br />
　会いに行ったなら「人に言われた通りにするなんて単純すぎる」笑われそうだ。<br />
　笑ってほしいな。<br />
　あれから五年が経ったんだ。<br />
　真っ暗な部屋のふとんの上で過去を振り返って泣きそうなボクがここにいる。今のボクを見て八神先生はどう思うだろう。泣きたければ泣けって言ってくれるのかな。<br />
　人の声が聞きたい。<br />
「悪いけど、どうしようもないことなんだ。納得してくれ」<br />
　店長に言われた。二時間前だ。正社員になる話が一度も出なかった時点でこの状況を覚悟しておくべきだったのかもしれない。<br />
　バイト、本当にクビになったんだよな。夢だったらいいのに。フリーター生活を脱する絶好の機会だって思える人間になりたい。どうせ永遠にバイトしているわけにはいかないんだ。<br />
　電気代、どうしよう。<br />
　クビになったのは店の経営上の問題だからしようがない。<br />
　ボクがめちゃくちゃ優秀ならクビになんてされていない。<br />
　御手洗、どうしているかな。一年近く会っていないな。<br />
　高校三年間の多くを一緒に過ごした。今だって連絡を取り合っている。それでも、悩みをしっかりと聞いてあげられたことはまったくない。<br />
　電話の向こうの御手洗はいつも明るい。無理して明るく振る舞っているだけだろう。<br />
　卒業して事務として就職した会社、まだ続いているのかな。家族の話どころか仕事の話も遠ざけてばかりだ。名字、変わったんだよな。古い名字でしか呼ばない。なるべく名字を呼ばずに済むようにしている。新しい名字、聞いていない。友達の名字を知らないって、どうなんだろう。<br />
　世界滅亡の作文、回収されなかったな。八神先生、宿題を出したこと、忘れたのかな。大切なのは考える過程でそれを評価する必要なんてないってことかな。<br />
　今度、提出しに行こうかな。もう当時の作文は残っていないから、書き直すことになる。<br />
　世界滅亡、どうすればできるだろう。できやしない。目に映る太陽も月も、街も道も、ボクには壊せない。ボクに壊せるものなんてほんの一握りだ。<br />
　壊せるものは壊したくない。壊せるものは壊さずにもいられる。壊せるものは守れるものってことかな。<br />
　世界滅亡って、なんだろう。<br />
　ボクが死ねば世界滅亡だって考えはダメかな。ボク一人が死ぬことも世界の全員が死ぬことも、ボクの視点で見れば同じだ。<br />
　疲れたな。<br />
　身体、重い。<br />
　世界全員が死んだなら、誰も泣かない。ボクが死んだなら、泣いてくれる人がいる。<br />
　二人で八神先生に会いに行こうか。昔のボクらに戻れるかもしれない。<br />
　御手洗、飯にでも誘おうかな。<br />
　なんか今なら、深い話をできそうだ。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世界滅亡</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 May 2008 19:42:35 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>プリン</title>
            <description><![CDATA[<p>　プリンを作ってばかりのくたびれた二十二歳女性、人の目にはどう映るのかな。同情も見下しも嫌だ。でも、無視もされたくない。<br />
　雑誌やテレビの身の上相談を楽しそうに眺める人間の気持ちなんて、わたしには一生理解できない。<br />
　人の不幸を笑える連中が羨ましかったりもする。<br />
　自分より不幸な人を知ると、少しだけ前を向ける。悪いことかな。<br />
　エアコンのない家、狭いキッチン、汗だくでプリン液をかき混ぜるこの手を、本当はもっと別のことのために使いたい。満たされたい。<br />
　このボウル、壁に投げつけても許されるかな。<br />
　投げつけたなら、ケイコはどんな顔をするかな。悲しませたくない。<br />
「お姉ちゃん、まだ」<br />
　背中越しにケイコのか弱い声が聞こえる。<br />
　もう十歳なんだから、少しぐらい手伝えばいいのに。<br />
「まだよ。急いで作るから、待ってね」<br />
　わたしは振り向くことせず、背中越しに答える。<br />
　母さんがいれば、こんなにプリンのことばかり考えて暮らさなくて済んだんだ。仕事でくたくたになって帰り、夕飯の支度をして、食後にゆっくりすることすらできず今度はプリンを作る。<br />
　一生懸命、プリン液をかき混ぜる。<br />
　このまま世界のなにもかもがかき混ざっちゃえばいいのに。不幸も幸せも家族も姉妹も卵に溶けて一つになる。<br />
　このプリン液に記憶を混ぜてしまいたい。<br />
　母さん、本当にいないんだ。<br />
　母さんがどうして失踪したのかは五年経った今でもわからない。女手一つで娘二人を育てる辛さに耐えられなくなったのか、それとも、新しい男と愛を育むのにわたしたちがジャマだったのか。理由はなんであれ、わたしと妹のケイコが置いていかれたことは永遠に消えない現実だ。<br />
　プリンを作れば作るほど、現実が鮮明になる。<br />
　わたしが高校を卒業して働き始めるまで、叔父さん夫婦の家でグチグチ言われながら過ごすしかなかった。けっこうなストレスだったけれど、母さんに置いていかれた苦しみが遥かに大きくて、そこまで気にならなかった。母さんを思って毎晩泣き続ける妹のケイコが不憫でしようがなかった。時々、妹に内緒で泣かなければいけない姉という立場が疎ましくもあった。<br />
　今も、ここで泣きたい。<br />
「お姉ちゃん、早く食べたい」<br />
「ごめんね。マンガでも読んで待ってて」<br />
　振り返ると、部屋の真ん中、ケイコが今にも泣きそうな表情でわたしを見つめている。<br />
　ケイコの向こうのテレビ画面、タレントたちが憎らしいぐらい楽しげに料理している。番組で流れているこの歌、なんてタイトルだっけ。<br />
　最近、昔のことがなかなか思い出せない。聞き慣れた歌でも思い出せない。<br />
　母さんがプリンを作るのが得意だったという記憶も、怪しい。市販のプリンの素を使っていたはずだから、実際にはそこまで美味しくなかったのかもしれない。あれから五年、わたしは味をおぼろげにしか覚えていない。<br />
　デザートのプリンが楽しみで夕飯を急いで食べたことや、そんなわたしに向けられた母さんの穏やかな笑顔は忘れようとしても忘れられない。<br />
　どうせいなくなるなら嫌な思い出をたっぷり残していってくれればよかったのに。<br />
　いなくなる前日の夜も、プリンを美味しく食べたんだ。<br />
　本当に、美味しかった。<br />
　不味ければよかったのに。<br />
　プリンを四つ作って、わたしとケイコで二つずつだった。たまにケイコが三つ食べた。母さんは甘いものが苦手だからって嘘をついて食べなかったね。<br />
「ママのプリンが食べたい」<br />
　母さんがいなくなってから、ケイコはいつもそう言って泣いてきた。<br />
「ママのプリンが食べたい」<br />
　十歳になった今もケイコは同じ言葉を口にして涙を流す。<br />
　わたしだって食べたい。<br />
　ケイコが生まれる前は、全部わたしが食べていた。一人で食べるのがなんか嫌で、母さんに強引に食べさせたことがあったっけ。すごく幸せそうに二人で食べた。<br />
　母さんは幸せじゃなかったのかな。<br />
「待っててね」<br />
　わたしは泣きじゃくるケイコに離れた位置から優しく声をかける。<br />
　並べた型にプリン液を流し込んでいく。<br />
　母さんが失踪してから、わたしはプリンが食べられなくなった。食べると泣いてしまう。あのプリンプリンした無邪気な質感が涙を誘う。ケイコはプリンを食べたなら、全力で泣く。わたしはケイコが泣くために涙をこらえてプリンを作っている。<br />
　プリン以外の何一つとして意味を持たないような日々ってなんなのだろう。<br />
「ママと同じ味じゃないと嫌だよ」<br />
　ケイコは言う。<br />
「うん。お姉ちゃんがんばるから、待っててね」<br />
　冷蔵庫の扉を開け、プリン液の揺らぐ型を丁寧に置いていく。<br />
「絶対に絶対にママの味だからね」<br />
　ケイコは悲しすぎるぐらいに弱々しい瞳でわたしを見つめる。<br />
　わたしは冷蔵庫の扉を閉めてケイコの視線から目を逸らし、壁にかけられた時計の針を見つめる。<br />
　午後八時二十分、完成する頃には九時半だ。プリンが五分で固まる裏技でもあればいいのに。<br />
　プリンができるまでケイコは泣き続ける。プリンを食べてまたたくさん泣く。泣き疲れて眠る。そしてプリンの夢を見る。<br />
　ケイコの頭の中、プリンのことばかりだ。母さんのことばかりだ。<br />
　もっと小学生らしくドラマやアニメではしゃいでほしい。はしゃがせてあげたい。<br />
　テレビから流れている歌、中学時代に流行ってたんだ。懐かしい。カラオケで、通学路で、悩みなんて言葉を知らないわたしは楽しく歌った。クラスのみんな、どうしているかな。アッコ、パティシエになれたかな。恋人のためにプリン作ったりするのかな。もう五年間、会っていない。今は、会いたくない。<br />
　あの頃、プリンはただ味わうためだけのものだった。<br />
　毎日毎日、プリンを作る。母さんがいた頃は料理なんてまったくしなかったわたしが、五年間、ほぼ毎日プリンを作っている。高熱でうなされてもプリンを作る。高熱でうなされてプリンに襲われる悪夢を見る。そんな夢から逃げるように起きた朝は、世界が汚れて見える。鏡に映る自分も汚れて見える。<br />
　当時から少しでも家事を手伝っていれば、母さんはいなくならなかったのかな。<br />
　母さんなんていなければよかった。<br />
　母さんが帰ってきたなら全力で抱きつく。<br />
「ねえ、ケイコ」<br />
「なに」<br />
　ケイコの涙はまだ止まらない。<br />
「お姉ちゃんが作るプリン、美味しくないかな」<br />
「美味しいよ」<br />
「そっか。嬉しい」<br />
「美味しい、けど」<br />
　ケイコは涙をこらえようとがんばって、でも、こらえられない。<br />
「けど、なにかな」<br />
「ママのとは、違う」<br />
「そうね。そうだよね」<br />
　母さんのプリンの味なんて、まだ五歳だったケイコはどうせ覚えてやしない。<br />
　わたしが世界で一番美味しいプリンを作っても、ケイコは納得しない。<br />
　母さんがコンビニのプリンを買って帰ってきたなら、それを笑顔で食べるんだ。<br />
　法律でプリンが禁止されればいいのに。もしもそうなれば、わたしはプリンを作らなくていい。<br />
　でも、作ってあげたい。<br />
　カラメルシロップ、用意しなきゃ。<br />
「お姉ちゃん」<br />
「なに」<br />
「プリン、一緒に食べようよ」<br />
「ケイコ一人で全部食べていいのよ。プリン、好きでしょう」<br />
「お姉ちゃんと、食べたいの」<br />
「どうして」<br />
「食べたいの」<br />
「そうね。たまには、一緒に食べようか。美味しすぎて泣いちゃうかも」<br />
「うん。お姉ちゃんのプリン、美味しいよ」</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">プリン</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 10 May 2008 15:16:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>独りぼっちを探す勇気なんてありません</title>
            <description><![CDATA[<ul>
<li>独りぼっちを探す勇気なんてありません
</li><li>わたしにとって特別な人は、他の誰かにとっても特別な人
</li><li>最高に難しいのはがんばることよりも諦めること
</li><li>曲がり角がわからないのは、目的地があるから
</li><li>求めることと叶えることは別でしょう
</li><li>ラーメンを一人で全部食べられるからって大人じゃないのね
</li><li>心の汚れは人に見えないから困る
</li><li>わたしが知らないところでわたしの世界が回っている
</li><li>本に載っていることは一人で生きていくための役には立たない
</li><li>屋上に来たぐらいじゃ月に手は届かない
</li>
</ul>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/04/post-18.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">解答</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 26 Apr 2008 22:47:25 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>階段を一段飛ばしで上ればどこにだって届くと思ってた</title>
            <description><![CDATA[<ul>
<li>階段を一段飛ばしで上ればどこにだって届くと思ってた
</li><li>世界には半分こできるものしかないと思ってた
</li><li>ねえ、あっち向いてからこっち向いて
</li><li>昨日の足音、今日の足音、明日の足音
</li><li>鏡のない部屋で自分と向かい合いましょう
</li><li>足し算が得意でも引き算は不得意だったりする
</li><li>そうよ。おままごとよ。リアルなおままごと。
</li><li>手の平の上、思いを転がせない
</li><li>偶然を必然に変える力が欲しい
</li><li>わたしの好き嫌いは多数決の国で埋もれている
</li>
</ul>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/04/post-7.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">思考</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 26 Apr 2008 22:41:16 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>困ったときに相談する相手のリストを作ることは前向き、それとも、後ろ向き</title>
            <description><![CDATA[<ul>
<li>困ったときに相談する相手のリストを作ることは前向き、それとも、後ろ向き
</li><li>明日の天気と一週間後の天気、どっちが知りたいかな
</li><li>夜の空気と朝の空気の酸素と窒素の比率、同じだって本当かな
</li><li>長生きしたいのは今が幸せだから、それとも、不幸だから
</li><li>ファンレターとラブレターに違い、ありますか
</li><li>自分が電池駆動だと気づいたならどうする
</li><li>手に汗を握った経験、ありますか
</li><li>一日が二十四時間って、調べたことありますか
</li><li>自己満足以上の喜びはどこにあるの
</li><li>世界全員でしりとりするなら、何番目に答えたいですか
</li>
</ul>]]></description>
            <link>http://www.aoharu-b.com/nty/2008/04/post-2.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">設問</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 26 Apr 2008 22:38:39 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>声が出ないから、手を握る</title>
            <description><![CDATA[<ul>
<li>声が出ないから、手を握る
</li><li>わたしはわたしを解雇しない
</li><li>すぐそこが曲がり角だから、地図を投げ捨てた
</li><li>昨日、大人になりました。これから子どもに戻ります。
</li><li>マイペースを光速に近づけるの
</li><li>泣いて済むならいくらでも泣く。泣いても済まないから泣きながら進む。
</li><li>いつかはファンレター数世界一
</li><li>一パーセントの可能性にすがるより、二パーセントの可